『山猫』のドン・ファブリツィオは黒嬬子の堂々たる大ネクタイを自分で巻く。他方、加賀の前田本家には衣装係の使用人がいて、当主は蝶ネクタイを自分で結ばない*1。シチリアのサリーナ家と加賀百万石では経済力が違うのか。それともファブリツィオのダンディズムなのか。ただ、経済力の違いだとしても前田家が衣装係の使用人を雇うことに華美を追う意味合いは薄く、むしろワークシェアリングに近い。衣装係は当主の利為が出かけるとやることがない。社会主義の隆盛もあって、利為は華族の社会貢献を気にする人なのだ。
利為は華族の先行きに悲観的である。娘の美意子に対して華族の存在意義をこう説明する。文化財を蒐集して学者を連れてきて論文を書いてもらい整理して次世代に引き渡す。そういう仕事はわれわれにしかできない。
利為はまた使用人に対する口の利き方に煩い。彼らの自尊心を損なうなとフォレスターの小説のようなことを美意子に散々諭す。
メリトクラシーの世の中にあって世襲の後ろめたさに利為は苛まれる。ただの殿様でない証しを立てるために奮起して陸大の恩賜組(三位)である。それでも皇族と同じく殿様扱いで局外に置かれがちだ。陸大23期は首席が梅津美治郎で次席が永田鉄山という化け物のようなエリート揃いで、これに比べると殿様という感じに落ち着てしまう。
メリトクラシーの塊ヒデキとは当然そりが合わない。利為が遭難し弔問に訪れたヒデキは美意子に「お寂しくおなりで」と声をかける。美意子は侮蔑を隠さない。ヒデキを小間使いみたいと評する。
貴族であることの鬱屈とは正反対なのが寺内寿一である。この人は強面で腹切り問答やゴーストップ事件だから、教科書で触れる限りでは陰険な感じがある。実際は陽性の人物だったらしい。以下、藤井の『昭和の陸軍人事』から引く。
寺内は身銭を切って人にご馳走したり、接待するのがなによりの楽しみである。ゴーストップ事件では警察関係者を招待して、料亭を借り切って盛大な手打式を挙行。その支払いもすべて自腹。
伯爵だからやはり局外扱いで、予備役になって貴族院に入り、陸軍のためにおおいにやってもらいたいというのが大方の希望。軍歴に箔を付けてやらねばということで、中将進級。関東軍の独立守備隊司令官になると司令部を訪れる人をだれ彼問わず盛大にもてなす。親父よりも大物ではないかとなり、大将にしてから貴族院に送り込めというノリになる。この寺内もヒデキとは犬猿の仲である。
美意子の話には近衛も登場する。この人は女性に対しては女言葉になるとあり、『神阪四郎の犯罪』の森繁のようなイヤさがあるのだが、これは当時よくある類型だったのかもしれない。
それでこの近衛が梅津美治郎と合わない。近衛は徒党づくりが趣味である。梅津は昭和陸軍最強の近代人だから徒党を嫌う。人事では同郷人を近づけない。近衛は生理的にこれを嫌ったのだと思われる。
美意子がヒデキを侮蔑するのも同根なのだろう。
利為は使用人に気を使うと先に触れた。ヒデキもこれに煩い人で、参内して何か下賜されると金銭でも菓子でも酒でも官邸の使用人末端に至るまで分け与える。靖国に参拝すると遺族一人一人に挨拶して回る。ただ他人にも同様に配慮を求めるところが彼の徳のないところなのだが、弔問で美意子はこの配慮に苛立ったのではないか。
貴族は戦争で真っ先に死ぬために飼われている。戦死して悔みを言われるのはむしろ侮辱である。ところがヒデキは利為の遺族に気を使ってしまう。使用人に対する態度で美意子に接してしまったのである。
大仰に言えばこれは神話的な場面で、実体として滅びつつあった明治国家がもっとも近代に近づいた瞬間といえなくもない。