貴族にあこがれるアメリカ娘がフランスの没落貴族と結婚する。娘の実家は裕福な中産階級である。結婚後、夫はパリに出かけ女を作りまくる。男の方は金目当てで結婚したのだった。
妻はサンジェルマン・アン・レーの見晴台で毎日黄昏る。そこにアメリカ男が通りがかり、女と近づきになる。男は女と同じく中産階級の出である。彼は夫の貴族男を蔑む。アメリカ男は中産階級の徳目たるメリトクラシーの申し子なのだ。
この話は中産階級賛歌であるが、創作の作法に則って自視点の相対化を試みるべく、貴族の視点を挿入する。
アメリカ男にとって妻を裏切って平然としている貴族男は不可解である。彼は貴族男の妹に食って掛かる。なんて不道徳だと。ところが貴族である義妹にとっては、むしろアメリカ娘の方が道徳に悖るのである。
敵対者の自意識に言及するのはキャラ相対化の基本である。中産階級に自分たちがどう見られているか。中産階級にとって自分たちの考えが如何に奇妙か。義妹はその自覚を示したうえで、アメリカ娘の非難にかかる。
曰く、モーヴ家の男には妻に嫉妬させなかった者はひとりもいなかったが、誰一人焼餅を焼くようなはしたないことをした者はいない。なぜか。誇りがそうさせなかった。頭痛のするときでも、普段と変らず夕食に出席した。胸が痛んでもつとめて晴々としていた。それをあのアメリカ娘は、夫に裏切られた妻という姿勢を取り、世をはかなんだようなふりをして家に閉じこもる。あの自己顕示が倫理に悖る。何とも美しくない。
階級固定が前提とされた条件下で育成された美意識である。中産階級がメリトクラシーで自分を駆り立てるとすれば、貴族は宿命で自分を鼓舞するのである。
義妹の非難はそのまま『あのこは貴族』の高良健吾に当てはまるだろう。貴族でありながら宿命ベースの価値観に苛まれる。そのこと事態に非難の謂れはない。しかし彼は、疲弊を隠せずにムギムギに気を使わせることで貴族の禁忌を侵してしまう。甘えである。
貴族の美意識を理解する必要はない。ただ言及はせねば中産階級の礼賛に信憑性がともなわない。
本作の場合は、貴族の視点に踏み込み過ぎて、義妹が中産階級と貴族を包摂する立場に至ってしまう。貴族的美意識を訴えると、今度はメリトクラシーをも援用してアメリカ娘を非難する。
あんな美人のくせに、夫の心をとらえておけないのなら、それは自分が悪いのです。