『燃ゆる女の肖像』 Portrait de la jeune fille en feu (2019)

画家にもモデルにも顔に違和感を覚える。その正体がわからない。


画家が肖像の依頼を受ける。過去にその女の肖像を試みた男がいたが途中で頓挫している。顔のない肖像画が残された。どんな顔貌なのか、いよいよ興味が惹かれるが、画家が女と対面しても背中を向けるばかりで、散々に焦らされる。まさか、終盤で女自身があんな形で焦らし返されるとは...


それはともかく、ついに女が顔を画面に向けると、このアデル・エネル、端的に変な顔をしている。しかしどこが変なのかわからない。


画家のノエミ・メルランも顔に違和感がある。この人の陰気な顔容に引っ掛かりを覚える。なぜなのか。陰気な彼女が初めて笑う場面がくる。ノエミの上顎にはやや前突の気がある。違和感の出所が判明する。口元が老人なのだ。上顎前突を隠そうとする人がやる、何かを含んだようなあの口元。


画題のアデルの違和感も明らかとなる。ノエミの顔と並んだときギョッとしてしまう。巨顔なのである。画家の顔と並ばないと、その大きさが明確に把握されないのだ。


互いに同性愛である二人は惹かれ合い口唇を重ねるようになるが、その性欲には物証的な裏付けというか、物体的な正当性がある。画家は口唇を重ねることで、上顎前突の違和感を消す。画題の女は巨顔を赤裸々にして違和感の正体を暴露することで、違和感を解消する。その恋には物体的な担保がある。


が、問題もある。物質の優先した性欲が先にある関係である。言い換えれば、情がなくとも成立する関係である。期間限定の恋に切実さが生じない。別離は淡白である。これはラストカットの一発芸でもっていく類の話なのだ。肉体優先のために、切なさは後日談に託される。


十年ほど経ったのだろうか。男との結婚を強いられた画題の女と画家は劇場で邂逅する。画家がバルコニー席に着くと向かいのバルコニーにあの女がいる。画家は劇そっちのけでジロジロと懐かしい女に眼差しを送る。画題の女は振り向くわけにはいかない。夫も子どもあるのだ。振り向いてしまったらすべてが終わってしまう。しかし...


長い長い焦らしプレイが始まり、巨顔が真の正当性を享受する時がやってくる。女はその巨顔を縦横無尽に酷使して喜怒哀楽の波に顔容を委ねる。巨顔は感情を物化するカンバスだったのだ。