北大路欣也を救え 『資金源強奪』と『広島死闘篇』

山一抗争の顛末が明らかになった今日から見ると『激動の1750日』にはつらいものがある。



この話で中条きよしは中井貴一に心服しきっている。幹部会で見せた中井の胆力に「胸があつうなったわ」と感嘆する。ところが今日のわたしたちは知っている。実際のところ、きよしは中井を単なる神輿としか考えていない。中井は後に跡目を継ぐと、きよしの操り人形で甘んじることはできなくなり、事はきよしの射殺にまでヒートアップしてしまう。


中井は丹波哲郎に説得されて夏八木勲の引退を飲む。そこで話は終わる。しかしながら、現実の彼は丹波を通して夏八木に金を渡している。夏八木が引退しないことには、跡目を継ぐ名分が立たなかったからだ。


美談が強調されるほど、滑稽になってしまう。しかし現実との齟齬ばかりが『激動』を滑稽にしてるわけでもない。独立した物語としても『激動』は脆弱さを抱えている。抗争に駆り立てられる人々の動機が分かりづらいのである。美談調であるがゆえに具体的な金の話を避けるからだ。中井は抗争の動機について端的に口頭で説明する。夏八木一派が代紋を握ると若い者が報われないと。どう報われないのか。いかなる不利益が生じるのか。これらが具体化されることはない。


ヤクザは個人事業者である。組は個人事業者の互助団体である*1。個人事業者として彼らは組に月会費20〜30万上納する*2。経済の話をしてしまうと、個人事業者としてのヤクザの性格から事は個人に還元されてしまい、集団劇の構成の難易度が上がる。『激動』の課題は明らかだろう。集団抗争劇と個人劇の並走をいかに構成するのか。それが問われたのである。


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『広島死闘篇』は集団抗争劇のシリーズにあっては変則的な位置づけにある。話はあくまで北大路欣也の周縁に留まっている。構成の難易度でいえば、続編『代理戦争』の方がはるかに高い。敗北する北大路の『死闘篇』に対して、『代理戦争』は渡瀬恒彦の成長と挫折の物語である。渡瀬は広能組へ加入する。それが話の発端の一つになっていて、彼の人生の帰結を以て『代理戦争』は幕を閉じる。『死闘篇』との違いは、かかる渡瀬の個人の物語が集団抗争劇が組み込まれ、それと並走しているところだ。『死闘篇』では具体的な金の話は扱われない。ところが代理戦争では経済が扱われ、経済が人々の動機や行動原理を統制している。金の話が個人と組織を結び付け、話を個人の枠に留めないのである。


シリーズを通して広能の動機を駆り立てているのは山守への憎悪である。『代理戦争』はスクラップ置き場という装置を通じて、山守への憎悪に対する共感を喚起する。広能組のシマであるスクラップを山守は断りもなく持ち出してしまうのである。どうして山守を野放しにしてはならないのか、この場面ひとつで事の痛切さが伝わってくる。


スクラップ置き場はまた個人劇の駆動装置としても働く。スクラップは広能組の三下である川谷拓三にもくすねられてしまう。川谷は仕事ができない男なのだ。


『死闘篇』は梶芽衣子と北大路の恋愛の物語である。個人劇としての『代理戦争』は池玲子をめぐる川谷と渡瀬の三角関係の物語でもある。池は川谷の女であり、そこにちょっとした謎の提起がある。なぜ池は川谷のようなダメ男にくっついているのか。広能組に新たに加わり、このふたりの間に割り込んでくるのが渡瀬なのである。


抗争劇としての『代理戦争』の山場は広能と武田の邂逅にあるだろう*3。広能が山守打倒の共謀を武田に持ち出す。他方で個人劇としてのひとつの山場になるのが、渡瀬と池と川谷の三角関係が顕在化するところである。池は川谷を振り捨てて叫ぶ。


「うちはもうたけしのものじゃけえ」



捨てられた川谷の反応がカワイイ。「おんどりゃああ」と鳴き声を上げて襲いかかる。なぜかつての池は川谷の情婦となったのか。その謎が氷解する。彼はカワイイのだ。同時に、仕事ができない川谷から彼女が離れることで自然の摂理が表現されるのである。


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『死闘篇』は『資金源強奪』とセットで見るべきだ。両作品の中で収監中に北大路は恋愛の裏切りに遭遇する。娑婆に残してきた女が取られてしまう。ところが反応が違うのである。『死闘篇』の北大路はそれを知って刑務所から出奔し惨死を遂げる。『資金源』の北大路は明るい。あくまで前向きに事態に立ち向かおうとする。


『資金源』の北大路は敵対組織の組長を殺害して服役している。出所してみると、組はかつての敵対組織と宥和していて居場所がなくなっている。女も兄貴分に取られている。しかし彼は前向きなのだ。北大路は組の賭場から3億5千万を強奪する。裏切った女も計画に利用する。北大路の策謀を知って憤る女に北大路は語る。


「人間みんな一人ぼっちや。これがワイの8年間のムショ土産や」


『資金源強奪』はふたつの意味で『死闘篇』を補完している。『死闘篇』で敗北した北大路を救うこと。タイトルからわかるように『死闘篇』が欠いていた経済性を補間すること。


追手から車で逃れる北大路は、偽装のために小泉洋子を拉致って助手席に乗せる。北大路と小泉には何の関係もない。偶然そこにいたから小泉は拉致られてしまった。小泉を引きずり回し目的を達した北大路は、口止めを渡して彼女を解放する。



計画が成功し空港に向かった北大路。彼を最後に見舞うのは、そのピカレスク性を利用した緊張である。空港カウンターのむこうには、彼が拉致をした小泉が立っているのだ。北大路は土壇場で計画の瓦解を悟る。今にも小泉が騒ぎ出すと予想する。ところが彼女は雌の顔をしている。胸元には彼が口止めとして与えたブローチが輝いている。北大路は一人ぼっちではなかったのである。


これは市場の逆説性の寓話だろう。市場は孤立した個々人の間を介在するが、逆に孤立した個人が存在しないような血縁社会では市場の醸成が不完全になる。経済性の焦点化により、関係性の成立は分離した個人を前提とするようになる。あるいはまた、経済性は信頼の再醸成の機序にもなる。経済性への配慮が人間の行動を予期可能にして信頼を醸成する。北大路と小泉の間に取引関係が成立したように。


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ピカレスク性を経由した連帯は『資金源』の姉妹編ともいえる『狂った野獣』でも扱われている。『資金源』が『広島死闘篇』で敗れた北大路を救う話に対して『狂った野獣』は『代理戦争』で敗れた渡瀬を救う話である。


宝石を強奪した渡瀬は逃走中にバスジャックに巻き込まれてしまう。バスジャック犯は川谷だから、彼にしてみれば『代理戦争』の報復戦になるのだろう。その混乱の中で描かれるのは、孤立した乗客たちのエゴイズムだ。しかし彼らは、渡瀬の逃走の幇助を契機として一体となる。渡瀬に共感するわたしたちは、同じようにその成功を祈る乗客たちにもそこで初めて共感するのである。


『資金源強奪』の前向きさはまた、同じ高田脚本の『新仁義なき戦い 組長の首』にも波及している。両者とも構成が似ている。


文太は兄弟分の山崎努のために服役する。山崎は西村晃組の幹部で、文太はその敵対組織の会長を銃殺したのだった。ところが出所してみると頼みの山崎はシャブ中で廃人となり破門されている。文太は相手にされない。彼はそこで西村組の乗っ取りを明るく画策するのである。

*1:鈴木智彦『ヤクザ1000人に会いました!』宝島社

*2:溝口敦『暴力団』新潮社

*3:無能の表象としての個性を参照