仮文芸

現代邦画とSFの感想

ラブソング探して

 学生のころ阿佐ヶ谷に引っ越して7年ほど住んだ。就職後は5年ほど、阿佐ヶ谷から中村橋の勤務先まで中杉通りに沿った裏道を徒歩で通った。自転車ではないのは健康狂だからだ
 何もかもがなつかしい。
 これもずいぶん前の話になるが、ある日、懐旧でメソメソしたい衝動に駆られたわたしは、あの懐かしの通勤路を10年ぶりにたどればさぞかし咽ぶことができるだろうとほくそ笑み、当時住んでいた豊玉から阿佐ヶ谷までわざわざ足を運んだ。
 ところが、当てが外れた。
 まったく懐旧のメソメソに襲われない。
 5年間も毎日のように通ったのだから、街路の様子が克明に記憶されていて昨日今日の感覚にしかならないのである。

 懐旧の誘起には条件がある。経験せねば懐旧は生じない。かつて通いなれた場所の方が未見のそれよりも懐旧をもたらす確率は高い。しかし慣れ過ぎても懐旧はそこなわれる。
 場所を通過した回数をxとすると懐かしさuはたとえば以下のように表現できる。
 u=2√x - (1/2)x
 これを微分すれば最適な訪問頻度が判明する。作図すればこうなる。f:id:disjunctive:20190502195159p:plain

 懐旧の情を減じせしめる記憶の克明さは、年数が経てば薄れる。多頻度による明瞭な記憶は経年の度合いによって相殺されるはずだ。しかし時の隔たりにも、経験頻度と似た傾向を予想できる。あまりにも隔てられると記憶がなくなり過ぎて未見の場所と変わらなくなるだろう。