谷崎潤一郎 『春琴抄』 [1933]

盲目の彼女を戸口まで曳いて行って、手水の水を掛ける件だが、うっかりして、ひとりで行かせると大変になる。「済まんことでござりました」と男は声を震わせる一方、女は「もうええ」と首を振るのである。

しかしこういう場合「もうええ」といわれても「そうでござりますか」と引き退がっては一層後がいけないのである。無理にも柄杓をもぎ取るようにして水をかけてやるのがコツなのである

ラヴリィといえばラヴリィすぐるが、他覚的な観察の隔たりもある。殊に、女の吝嗇癖や贈収賄に弱い体質が明らかになると、もっと価値あるものに暴虐されたいなあ、と自分は思わないでもない。つまり、『細雪』の雪子と同じ趣向が現れていて、谷崎にしてみれば、価値のある暴虐では刺戟が足りない。むしろ全く無価値なものに虐げられたい。だから、ラヴリィでありながら距離感を維持する、あるいは、距離感そのものがラヴリィと感ぜられる叙述が出てくるのだろう。