善人たちの阿呆船 『ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐』から『世界大戦争』へ


『太平洋の嵐』('60)で二航戦司令官の山口多聞を演じたのは三船敏郎でした。その隣で飛龍の艦長をやったのは田崎潤。彼らの背後には先任参謀の池部良が控え、さらに後方の発着艦指揮所では飛行長の平田昭彦がランプを振り回しています。飛行隊長の鶴田浩二は甲板でブリーフィングを行い、佐藤允は艦戦乗りとして鶴田らの直衛に回ります。初見ではこんなフネが沈むとはとても思えませんでした。それどころかこれ一隻でエセックス級20隻くらい屠れるに違いない。しかし史実通り、本作の飛龍もヨークタウンと差し違え、海没したのでした。



余談ですが、飛龍の羅針艦橋に三船以下を押し込む都合から、本作のセットは実際の艦橋に忠実ではありません。飛龍の羅針艦橋では、羅針儀の置かれた前部と海図台のある後部の間に仕切がありました。セットはこの仕切を省略することで、見通しを確保しています。



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前に『やくざ戦争 日本の首領』('77)に触れたとき、キャスティングのオーバースぺックが話の信憑性を損ないかねないと指摘したことがありました。『日本の首領』では佐分利信が田岡一雄の役です。その配下には成田三樹夫鶴田浩二松方弘樹千葉真一渡瀬恒彦らが連なり、これで関東進出を謀るというのですから、話に現実感が出てこない。この面子であれば銀河帝国創始も可能でしょう。中島貞夫と脚本の高田宏治は、主演級の役者を使い捨てにすることで組織の自壊と凋落を演出し、キャストの無駄な奥行きを正当化しました。それでは、松林宗恵は『太平洋の嵐』のオーバースペックな第二航空戦隊に整合性を与えるため、何を行ったのでしょうか。あるいは、なぜ飛龍は無駄に厚いキャストの陣容を誇る必要があったのか。答えは「運命の五分間」の前段階、第二次攻撃隊の陸用爆弾転換に至る描画の中にあります。具体的に見て行きましょう。



ミッドウェイへの第一攻撃の段階で、第二次攻撃隊は雷装待機で敵空母出現に備えています。しかし第一攻撃に威力不足を認めた鶴田浩二は、第二次攻撃の必要ありと打電しました。第二次攻撃隊は雷装ですから兵器転換が必要ですが、敵機動部隊がいつ現れるかわかったものではない。場面は「後の判断は赤城の司令部の決めることだ」という鶴田の台詞に誘導され、初めて赤城の第一航空艦隊司令部に移り、そこで観客は、そこにあってはならないものを目撃して驚愕し絶望します。『社長シリーズ』のメタボリック妖精にして森繁久彌守護天使加東大介小林桂樹がそれぞれ作戦参謀と戦務参謀として、スクリーンに広漠たる顔面を曝したのでした。帝国海軍の運命もここに窮まったのです。



鶴田の連絡に際した加東は、社長シリーズの演技そのままに陸用爆弾への変更を主張します。航空参謀の三橋達也は敵空母を危惧し変更に反対です。すると小林桂樹は、偵察機の連絡ないから空母いないだろうと、社長シリーズそのままの暢気な口ぶりで加東に賛意を示すのです。通信参謀の宝田明の加勢もあって趨勢は決まり、飛龍には爆装転換の発光信号が送られ、三船と田崎は「あの無能ども」と頭を抱えるのです。ここでどうして宝田明が加東&小林に与するのか、という造形スペックの違和感が出てきますが、後述するように、松林は回答を翌年に持ち越します。



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松林宗恵は『社長シリーズ』の監督でありながら、『社長シリーズ』を誰よりも憎みました。映画に仏心を注入したくて東宝に入ったくらいファンクな人ですから、社長シリーズだけを見れば、森繁のセクハラに教条的見解をいたく刺戟されたと判断するのが自然でしょう。ところが『太平洋の嵐』に至ると、この簡潔な教条的見解は、赤城の司令部に加東大介小林桂樹を配し、正規空母四隻を一挙に喪失させることで、勤勉な無能が人類を滅亡に追いやるといった、フォン・ゼークト的な見解に接近します。もっとも、ゼークトのそれは工学的な教訓として示されたものですが、松林の見解はより文芸的でした。傾斜する飛龍の艦橋で艦長の田崎潤は「作戦を誤った」と訴えます。しかし三船は、知恵や力ではどうにもならない問題だと、事を曖昧にしています。




宝田明はこの災厄に自業自得ながらも巻き込まれた翌年、松林演出の『世界大戦争』において、人類の終焉に立ち会いました。彼が乗り込んだ笠置丸の船長は東野英治郎でした。加えて司厨長に笠智衆が充てられることで、人類の死亡フラグは確実となりました。無能の船赤城はその究極体に進化したと言えるでしょう。



『太平洋の嵐』が不沈艦飛龍を沈めることで大きな謎を残すように、『世界大戦争』もわれわれに課題を投げかけています。世界大戦争は善人しか出てこない戦争映画です。世界中の善人が戦争回避に尽力するほど事態は悪化します。松林はここで善意というものを無能の現れとして扱っているのです。『社長シリーズ』から援用された赤城司令部の配役も、報復人事ではなかったのでしょう。『社長シリーズ』という無能な善意の物語だけが、あの飛龍を沈めることができたのであって、三船が嘆いたのは善意が無能として現れる事態そのものでした。



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世界大戦争』の笠置丸は、その災禍の中心であるために、人類の滅亡を伴にすることができませんでした。松林は、善意という無能の最高階梯にある笠智衆に、次の台詞を小津調のまま、まるで他人事のように言わせることで、お話に幕を下ろします。



「人間はすばらしいものだがなあ。一人もいなくなってしまうのですか、この地球上に」