この有名な人情噺はハッピーエンドの幸福感を増幅させるために中盤の橋の場面でサスペンス感を設け、敢えて受け手にストレスを与える。しかし予め落語で筋を知って上で歌舞伎の本作を見るとなると、そのサスペンス感は減じると考えるのが普通だろう。わたしは気が乗らないまま見始めたところ、問題の橋の場面に至ってキリスト教の自由意志問題のような不思議な感覚を被った。どうなるか知っているのである。しかし知っているからこそ余計にストレスを被りハラハラしたのである。
『文七元結』の筋は以下の通りである。
左官屋の長兵衛は博奕狂いで借財の山を築く。娘のお久は絶望して女郎屋に身を売る。女郎屋の女将は長兵衛と旧知である。長兵衛の窮状に同情した女将は堅気になるよう諭し、仕事道具の質受け代として50両を貸す。娘のお久は仕込みとして使い座敷には出さない。ただし返済期限は一年。それを過ぎたらお久は女郎になると脅す。長兵衛は改心する。稼ぎまくると約して50両を懐に吾妻橋に差しかかると問題の場面が始まる。奉公人の文七が50両を紛失してまさに身投げせんとしている。
ここで受け手にストレスを与えるのは50両を渡す渡さないサスペンスである。キャラに対する共感に差があって、この場面が初出の文七よりも長兵衛に同情がある。見なかったことにして通り過ぎろと思いたくなる。渡してしまったら長兵衛一家は破滅してしまう。しかしそれではキャラの倫理が疑われるから、とうぜん渡さずにはいられないだろうと予測されるのである。このジレンマがストレスを与える。
今回、この場面を観測しているわたしは全てを知っている。ストレスを免れるはずである。この既知であることがかえって曲者なのである。橋の場面に差し掛かるや嫌な気分になった。これからあの50両を渡す渡さないサスペンスを被ることになるのかとウンザリした。予測自体がストレスなのである。
『文七元結』には今ひとつのストレスがある。今回の歌舞伎の構成からは省かれているが、落語では橋の場面の後に文七が店に戻ると失くした50両が戻ったことが判明する。そのあと長兵衛が帰宅して妻のお兼に延々と愚痴られる場面が来る。受け手は50両が助かっていることを知っている。それがかえってストレスとなるのだ。早く幸福にしてくれというストレスが生じてしまう。今回の歌舞伎を観測しているわたしは筋を把握している。こいつら全員幸福になることを知っていて、早くも吾妻橋の場面からこのストレスが生じる羽目となる。未来が既知だからこそ焦らされてしまうのである。
昔から議論になっているらしいのだが、『文七元結』のハッピーエンドにはやりすぎなところがある。ちくまの落語百選のテクストに拠ると文七とお久が唐突に夫婦になって終わる。今回の歌舞伎版にはここにフォローが入る。文七の主人がお久を文七の嫁に呉れと申し出てくる。お久の先行きを懸念していた長兵衛にとっては願ってもない話である。ところが、お久の意志が確認されないまま話がまとまりそうになるから新たなストレスとなってしまう。最後になって、ようやくお前はどうだと長兵衛は意思確認にかかる。お久は文七を観測する。線の細い文弱風のイケメンである。一瞬で逆上せ上ったお久がものすごい科を作ったところで物語の幸福感が絶頂に達する。『文七元結』を文系邪念爆発のラブコメとして解釈した。ここに歌舞伎でなければならぬオリジナリティがある。