『Fukushima 50』(2020)

 渡辺謙佐藤浩市の造形については何の問題もない。いつも通りやってもらえば格好はつくだろう。問題は佐野史郎である。彼の造形如何によって物語の政治観が決まってしまうつらさがある。
 佐野は当初、ヒール兼コミックリリーフとして振る舞い、世間に流布する人物像をなぞる。しかし本作は政治観の露出を嫌う類の話である。佐野をピエロにして蔑んでいいのか次第に躊躇が出て来て、佐野との距離感を時折、掴みかねてしまう。
 序盤では事態の悪化に佐野は怒鳴ってばかりだった。しかし本当にまずいことに直面すると彼は言葉を失い始める。物語は佐野の内面に入りかかる訳だが、佐野の内面を誰も解せないから、あるいは解せない人物として彼は造形されているから、内面にアプローチした途端に時間が止まり凪が訪れる。
 この物語の趣旨は逆境に際した普通の人々の立ち振る舞いを観測することにある。冒頭から見入らざるを得ないのだが、場面が官邸になり佐野が型にはまった演技を始めると喜劇に変わる。佐野は物語のタイムキーパーであり、渡辺と佐藤の一本調子なヒロイズムで流れがちなこの映画のリアリズムパート、あるいはシン・ゴジラな部分に佐野は緩急をつける。この話にあっては佐野こそは究極の普通の人であり最も観測に値する人物だからだ。
 佐野が直面する文芸的事態とは何か。佐野とともにヒールを担う東電常務の篠井英介にそれはよく表れる。自らが責任を負うべき事態を他人の手にゆだねるというお馴染みのアレである。篠井は鉄面皮で渡辺を苛むのだが、事態の進捗に耐えきれなくなって鉄面皮を崩してしまうと、演技力の差もあって渡辺を喰ってしまい、運命を他人に委ねるつらさが抽出されてくる。
 普通の人、佐野もこれに耐えきれない。撤退問題で東電に怒鳴りこんだ彼は現場に行って自分も死ぬと叫んでしまう。現場に行くという現場放棄をやることで自分の運命の恢復を試みる。政治主義の立場からはよくないことだが観測に値する文芸現象には違いないから、この場面には喚起がある。ところがここで、今度は渡辺がコミックリリーフをやってしまうのである。喚起を中和することで佐野との距離感が保たれるのである。
 
 若松節朗は不思議な演出をやる人だ。『ホワイトアウト』(2000)でテロリストの人質となった松嶋菜々子はなぜか全編で科を作り続ける。『空母いぶき』(2019)で戦闘に巻き込まれた本田翼は艦長の西島秀俊に科を作り続ける。西島は例のごとくナルシストだから相手にしない。『沈まぬ太陽』(2009)では渡辺謙がテンパるたびにハリボテ然としたB747が画面を横切りコミックリリーフとなる。そう、佐野はあのB747係累なのである。