道徳と戦う因果コード 『母なる証明』


この映画はドキュメンタリズムの映像コードをいわばイベント絵として割り切って使っていると考えます。たとえばウォンビンを乗せた警察車両が事故る件。わたしはあの場面で、クリス・クーパーが自動車事故に巻き込まれるカットをドキュメンタリズムで処理した『アダプテーション』を連想したのですが、あの唐突なドキュメンタリズムが物語の動機と深く関連するのに比して、本作のそれではあくまで迫力があるとか、昨今のハリウッドで復権しつつあるカッコいいコードだから、といった刹那的な理由が先行していて、ドキュメンタリズムが話の動機と関わるとは見なせません。本編の映像コードとドキュメンタリズムの、前に挙げた例でいえば円谷特撮と松林本編のような解離が理念的に繕われず、映像コードの整合性の仁義がないがしろにされるのです。


感情移入を競う造形の不幸自慢も、そもそも不幸自慢競争という時点で物語倫理上の仁義を貶めるものですが、たとえ不幸自慢と割り切るにしても、性質の異なる不幸は比較ができない。女子高生の不幸に対するおかんの勝利条件は曖昧です。また、発現できる場所を求めてさまよう機能性にそそのかされ戯画化されたおかんの造形に、事実を知って罪悪感を覚える余地が残されてるとは思えません。造形の整合性の仁義がここで危うくなります。


不幸の量的緩和が不毛であるなら、不幸の意味合いを変える必要があるでしょう。機能的ゆえの道徳の不感症が、ウォンビンと自分の罪業をそれとして認識させるはずがないのなら、罪悪感は同じイベントに違う解釈の光を当てることで復調されねばならない。ウォンビンがナニしたのは問題になりません。懲役にならなければよいのです。工場を焼いたのも問題になりません。ウォンビンがそれで助かるからです。しかし彼がおかんの罪業を知るのは耐え難い。正確に言えば、おかんの罪業を演繹できるほどの知性を彼が示すのは何よりもおそろしい。それは彼の記憶の冗長性を予感させ、引いてはおかんによる虐待の記憶を明示するからです。ウォンビンの記憶が、道徳に不感な造形を保ちつつ不幸自慢の競争を戦うために設定された、おかんの最期の拠り所でした。


殺人の追憶』のラストシーンが、映画冒頭の映像コードと完全に重なることで、かえって風景の変容を語り得たのと対照的に、本作のラストはオープニングと映像コードを違えることで、その外貌の落差にもかかわらず事態は両者とも完全に一致していることを語ります。整合性に仁義を切れなかった映像コードはそこで、隔たりがあるからこそ、因果の整合性に仁義を切ることができたのです。