上方落語『浮世床』

 『トンデモ本の世界』で村上龍一の語呂本が批評されたことがあった。後に村上から自著を献本された山本弘は献辞の内容から村上がどうやら確信犯らしいと察する。しかし、どうやらも何も、村上の語呂本は誰が見てもふざけている代物であって、むしろ村上を本気だと解釈した山本の真面目さが印象に残ったのだった。
 批評しているつもりが批評の対象となってしまう。
 副島隆彦の『人類の月面着陸は無かったろう論』が8年前にトンデモ本のベスト・オブ・ベストに選ばれた。数ある陰謀論の中でなぜこの本がそれほど山本らの激昂をかったのか。未読であるから内容の是非は問えない。ただ、タイトルからすでに異様である。
 副島の他の言動から推測すれば、彼は陰謀論を信じているはずである。ところが、本気で信じている筈なのに付けられたタイトルはなぜか推量表現である。信じる内容を本当のところ否定しているような、あるいは、否定も肯定もない、もうどうでもいいと思っているような、まことにふざけた調子がこの推量によってもたらされてしまう。
 邪推をすれば、山本の真面目な倫理観はこれを許し難く捉えるはずだろう。
 副島は何を考えているのか。真正なのか確信犯なのか。

 

 副島隆彦×ひろゆき「騙されるな! 儲け話のここがウソ!」は怪異な対談である。

 最初は副島の天然にひろゆきが翻弄されるばかりである。ひろゆきは副島の言説の矛盾を指摘する。副島は天然なるままにその指摘を曲解する。話題はそらされ笑いが絶えない。ただ天然にしては違和感がある。
 副島は自分が演説好きであること、児童会長から生徒会長に至るまで嬉々として勤め上げた過去を滔滔と述べる。ならばどうして政治家にならなかったか。ひろゆきのこの問いに副島は答える。
 「こんなんだから信用されない」
 自覚があるのだ。
 副島の天然を詮索するひろゆきの作業は1時間に及ぶ。その甲斐あって、63分あたりから副島の鉄面皮がはがれ始める。
 調子に乗せられてきた副島は口舌をふるう。
 「自分がいちばんおもしろい」
 興味深いではなく明らかにファニィの意味である。さらに、自分の芸風をはっきりとボヤキ漫才だと定義する。63分40秒目の宮崎哲弥を誹謗する件に至っては、自分の論理矛盾に自分で吹き出してしまう始末である。
 天然も陰謀論もすべて確信犯なのか。そうではない。すべて本気である。ところが、確信しながらも自分の確信が世間では嗤いの対象であると自覚もしている。むしろそれを積極的に利用して天然自虐キャラを装う。たとえば三島由紀夫の評論文に見られるような、右派の人々に典型的な分裂の症状である。自分は知的な世界では際物のマイノリティである。かかる劣等感が当人に客観視をもたらすのだ。

 

 山本を苛立たせたであろう天然と確信の混濁。わたしはこれを見たことがある。『浮世床』の「変な軍記」である。

 
 文盲の男が見栄を張って読めない軍記を読んでいる。からかってやろうと、周りの連中が文盲の男に講釈してくれと頼む。
 男は渋々と読めないそれを談じはじめる。
 読めないから想像で読む。とうぜんおかしなことになり、聞き手は意地悪をして次々と突込みを入れる。
 読み手は突込みに応じて更に飛躍を繰り返し、話は収拾がつかなくなる。
 からかってるつもりだった聞き手連は嘆息する。
 「からかってるんじゃない。逆にからかわれちまった」
 文盲者を揶揄する陰湿な話が逆転する。そのやさしさがいい。

 

 もう本題とはあまり関係ないが、最後に東京03の「バンドの方向性」を検討したい。

 ヴォーカルとベースがバンドの方向性をめぐって対立している。商業路線でいくかどうか。温和なドラムはふたりにまかせるという。ふたりは激昂してドラムに意見を強要する。
 受け手の感情移入は温和なドラムに寄せられる。だがドラムが豹変して辛辣な意見を述べ始めると事態は急変する。
 問題は技量不足だとされ、事はワナビ問題へと移行する。温和なドラムはメンバーのを影で嗤っていたと述べ、泣きが入るヴォーカルとベースへ受け手の感情が移入する。逆にドラムの豊本からは移入が弾かれる。
 ところがヴォーカルの角田に変な天啓が下りる。
 彼は来る参院選の情勢について豊本に問いただしてしまう。唐突な話題に豊本は困惑しながらも、スラスラと情勢分析してしまう。
 人格ではなく属性が豊本を辛辣にしていたのであって、人格と属性を分離する営為が行われるのである。
 いったんはねつけられた豊本への受け手の移入は、キャラだから辛辣さはしょうがないというかたちで回復される。
 このやさしさがいい。