「田中と中田」 『サラリーマンNEO』

 二つの非常識圏(中山祐一朗南野陽子)が設置され、常識圏にある田口浩正は彼らに翻弄される。非常識圏は互いに対峙するものの、破綻は田口の奔走でかろうじて回避される。しかし、南野に向けられた中山と田口の密かな共犯関係が露わになると、非常識圏は田口を混乱させるようでいて、密かに彼を操作するようにも思われる。

 田口浩正の秘書いじりは、肯定的に解すと、別の人生にあって恋愛に破れつつあった彼の不幸を回収したように思われた(『三人の秘書』)*1。ところが、『サラリーマンNEO』の通底を流通する女性不信から鑑みると、奥田恵梨華いぢめを復讐劇の一環として解すこともできる。われわれが田口の振る舞いに覚えた歓楽は、彼の救済ではなくむしろその嗜虐性に基づいていたこともあり得る。
 基本的に『NEO』の女性不信が、恋愛の女性優位とその裏返しとして現れる女性恐怖から派生している以上、『セクシィ部長』は『川上くん』の危ういカウンターバランスでしかない。沢村一樹の男性優位がおぞましいくらい過激であるために、かえって、セクシィ部長はこの稀に見る優位を貫けるか、という不安が感ぜられる。ただ、微妙ながらもカウンターバランスが配置されたことを考慮すれば、通底にある女性不信が、実のところ、人格間の成長や動態を描画するためのきっかけであり出発点であった、ということも理解される。問題はそのやり方である。
 『NEO EXPRESS』に見受けられた中田有紀の繊細なサディズムを参照したい*2。女性優位や不信に対するカウンターバランスは確かに語られるのだが、それはあくまでも、それとなくナイーブに物語へ埋め込まねばならない。あからさまな男性優位は嘘くさく、カウンターバランスとしては心許ない。


 女性恐怖の温床、南野に向けられた田口の情緒は、したがって、中山の非常識圏に引きずられる体裁で、刹那のうちに現れねばならない。また、かかる共犯関係が同時に、『田中と中田』の異文化和解であったことも指摘してよい。

*1:2007/04/14を参照

*2:2006/11/08を参照