私は、一度きりという不可逆のよろこびに、微笑した (2)

練馬区役所の壁面を風が渡り、先輩の長い髪は波紋のように舞った。漆黒のせえらあ服を身に纏うその形姿は寛容でいて、どことなく冷ややかだった。



「――こんど結婚するの」



先輩は振り返り、そして私のために少しだけ微笑んだ。



「ここは愛のない無感動な宇宙なの。わたしはたくさんの愛を投資したいの」





高い空から落ちる日射しで、先輩の姿のよい輪郭は鮮明だった。淡く乾いた風がその香りを運び、空の彼方へ消えていった。区役所の鏡面のような窓に映る空は、明度の落ちた石盤の色だった。



私は遠い調べを聞いたような気がした。それは澄み渡った音楽だった。



区役所の窓面を仰ぐと、天上に浮かぶ綿雲が、震える斑状の翳りに遮られ、やがて見えなくなった。暗い斑状は、地上に近づき解像を高らかにするにつれて、陽光に輝く何万ものつるぺたの群れとなった。



街が揺れた。



嘆きを知らぬ忘恩の天使たちの放蕩で残忍な歌声が電線を鳴らした。光の波は空に充ち、地上を覆い、波長の長い色彩で不明瞭な陰翳を逐い、雑踏の奥行きを奪った。芳烈な線と色が踊り、黄色い風が塵埃を切って先輩を引き裂き、空へ送った。



私は爆風に叩き付けられ、燃える薔薇色の表土に埋まり、血泡を吐いた。幼女の毒に染まったその土は、飛散した肉の焼けるような甘い香りだった。(つづく)