CROSS†CHANNEL [2003]


人格発見のイヤらしさには自覚がある。だから簡潔な照れ隠しとして自虐をしたい。あるいはイベントの歩留まりを上げて、人格の発見が舞台の蓋然性の確保であるようなスリラーを見出したい。これが物語の運用上の最初の階梯だ。



2つ目の課題は、行動の信憑性を損なう恣意性からの保護を考えること。物語はしばしばこの恣意性を自動化と呼んでいるが、端的に言えば、それは自覚のある痴性のイヤらしさ。制御可能なトランスの興醒め感。ただループ物であるからには、自意識がなければループ自体を認められない。となると重なるループに身を任せ、選択という淘汰因子にオペレーショナルなイメージを結ばせるほかないのか。



この課題がクリアされると、あとは工学的なアプローチの問題になるから語りやすい。工学的にチートする喜びと、解決不能な文芸上のトピックがそれぞれ定義され明確に分離されるのだ。



おそらくループの類型からすれば、本作は文芸の課題よりも工学的な解決に傾斜したという意味で、グリムウッドの『リプレイ』のような淡泊さもあると思う。負け犬根性の希釈は時流の相違する感傷を利用してなされるが、このとき工学的なアプローチが功を奏してループは終わっているので、文芸上の課題がループとの関連をなくす。むしろ、記憶の継続した美希イベントの方が、時流の相違をループにうまく組み込んでいる。そのあたりはホーガンの『未来からのホットライン』ぽい感じである。