器質としての宿命

 『砂の器』のリメイクがまことにうまくいかない。本家が達成した宿命の感じがリメイクの諸作あっては薄くなっている。加藤嘉にとってハンセン病は自分の責任ではなかった。つまり『砂の器』は責任のない事態への対峙を宿命と定義している。渡辺謙の2004年版や2019年版は責任のない事態の導出に不手際がある。
 渡辺謙版ではハンセン病は連続放火殺人に置き換えられた。原田芳雄が放火殺人を行う。原因は村八分である。たしかに村八分と原田の帰責関係は明瞭ではない。しかし連続放火殺人は原田の責任である。それをやらない決断もありえたからだ。
 2019年版では村八分サイコパスの息子になった。柄本明サイコパス息子が少年殺人犯となり、加害者家族のバッシングの末、柄本当人も人を殺めてしまう。
 2004年版に比べれば、柄本版は事件の帰責に気をやっている。サイコパスが生まれた。これは自分の意志ではない。柄本の殺人にしても過失に近い形で行われる。しかしそれでも柄本に責任がないわけではない。彼は子をつくるという決断を行ったのだ。


 三木謙一のお節介にいかにして合理性を与えるか。『砂の器』最大の難所である。帰責できるが故の宿命感の欠落がここにも悪影響を及ぼすことになる。
 2004年版と2011年版では肉親が殺人犯とバレたら縁談がダメになると懸念されて三木殺しが行われた。これで縁談がダメになるのは非難されてしかるべきだが、縁談がダメになる懸念は理解されてよい。したがって、この懸念を解さない三木へ反発が生じかねない。他方、加藤嘉は犯罪者ではない。会うのに問題はなく三木は当然のことをしている。加藤剛は父に会えるのに会うわけにはいかないから格調が出るわけで、リメイクの場合、縁談がダメになるからでは俗な話になってしまい、むしろこの場合、会ってしまう方が格調高い気がする。


 『砂の器』を下敷きにした『探偵はBARにいる』の二作目も、やはりこの課題に取り組んでいる。ハンセン病は使えない。では、その代わりとした帰責なき事態とは何か。
 ゲイバーのマサコちゃんは妹に会えない。妹はバイオリニストであり、自分の存在は妹の栄達の邪魔になるとマサコちゃんは考える。
 確かにゲイは当人の責任ではないが、ゲイをハンセン病に置き換えてしまう人権感覚にわたしは仰天したのだった。
 冒頭からマサコちゃんの造形が如何にもな感じで、水商売だからそれで合っているのかもしれないが、しかし21世紀にもなって戯画的にゲイを叙述してしまう語り口はアナクロではないかと不審を抱かせるのである。ゲイを病気として器質的に捕捉しているので類型的な叙述となるほかないのだ。


 あるいは、メラニー・ロランの『オーケストラ!』を想起してよいだろう。ロランの両親はユダヤ人である。彼らは共産党に排斥されてラーゲリで亡くなっている。両親と面識のないロランがそれを初めて知る筋立てなのだが、これと並行して『少林サッカー』のような話が進んでいる。
 ボリショイを追われた元指揮者の清掃員が同じく追放された楽団員とともに偽楽団をでっちあげパリに渡航して世間を見返そうとする。この偽楽団のユダヤ人団員が類型的な守銭奴として登場するのだ。ユダヤ人排斥を扱いながら漫画のようなユダヤ人を造形する心理には解しがたいものがある。これもエスニシティを器質的に捕捉している証左ではなかろうか。