『サマータイムマシン・ブルース』(2009)

 この映画の醸すセクシャリティは曰く言い難い。舞台原作であるから、ただでさえ舞台調の現代邦画ジャンル物演技がとどまるところを知らず、躁々としたその芝居は薄弱の人々を思わせる。しかし樹里と真木よう子は冷めていて舞台調の芝居をやらない。男優たちを躁々とさせる以外に術を知らない童貞演出はまた女優に芝居をさせる術をもたないのであるが、男と女のこの落差こそ奇妙なセクシャリティの源泉にほかならぬ。樹里が薄弱な男たちをあたかも正常なものとして接するとき、事が性風俗の実践のように見えてしまうのである。
 SF研の稠密な構造も樹里の肢体を際立たせるばかりだ。移動するたびに埋め尽くされたガジェットを避けるべく樹里は肢体を撓らせねばならぬ。だが、セクシャリティが愛慕を構成しようとすると性風俗の援用が両刃となる。そのセクシャリティはあくまで演技であり不感なのである。
 かくして、潜伏的に樹里への愛慕が待たれるようになり、瑛太への彼女の懸想が発覚したとき、どれだけわれわれは樹里を愛慕するようになっていたか知らされる。セクシャリティが愛を招来し、またそれがセクシャリティに戻るような愛欲のネットワークが完成してアイドル映画が爆誕する。われわれがそこで到達するのは青春劇の本質、ノスタルジーの痕跡となったアイドルの肢体である。