若尾文子と童貞たち 『しとやかな獣』 [1962]


斜に構えた作劇の割に、キャラクターは人におもねろうとする。これが苦手だ。高松英郎が内情を吐露するのは構わない。彼はテンパっているからだ。しかし、若尾や伊藤雄之助が苦労話で同情を誘うのは、覚悟が足りない。彼らの斜に構えた言動がスポイルされ、実のところマジメな文明批評ですよという言い訳が始まるように思えてならない。斜に構えたいのなら、不快な造形が不快のままにエンタメする作劇の工夫がなされて然るべきだ。小芝居や特異な物腰が客の即物的な興味を引きつける以外に何の役割も持たなとなれば、それはオサレイヤらしいというものだ。



では伊藤や若尾が不快であるからこそエンタメするとはいかなることか。この文脈で話を追い始めると、けっきょく食物連鎖の頂点に立つ若尾を加虐して享しむ態度を採りたくなるし、彼女の情報開示もその一環となるだろう。あるいは若尾がわれわれの加虐を逃れて逃げおおせるか否かのスリラーとも解せる。彼女を追撃するのは、高松英郎山茶花究ミヤコ蝶々に俺たちの船越英二というどう見ても弱者に見えない最凶の弱者連合である。



このうち山茶花は天然すぎてそもそも他人と噛み合わない。しかし、天然であるから、いくら小芝居をしても伊藤雄之助とは違いイヤらしさから免れている。



ミヤコ蝶々はとてもよかったと思う。イヤらしい伊藤雄之助を虐待することで、その邪悪な攻撃力に好意を寄せることができた。蝶々は、若尾らと違い、何ら過去を開示することなく、むしろ自分であり続けることによって共感を誘うのである。