若尾文子と童貞たち 『卍』 [1964]


これは面白い。明らかに人を笑わせようとしていて、成功している。特に岸田今日子がすばらしい...「あんた綺麗な体ををををを」「あんまりやわ、あんまやりやわ」「にくたらし、うちあんた殺してやりたい」云々。



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語り手の保造にとって、若尾の内面はわからないものであり続けた。しかし、彼女の結婚を機に、今回の彼は、邪念をひとつ捨てることができた。わからないものをわからないものとして割り切ろうとしたのだった。



岸田の極端な演技は、若尾の造形のシグナルとして働いている。岸田に大げさな物腰をしてもらわなければ、受け手には若尾の魅力が伝わり難い。つまり、それほど今回の若尾の造形には手がかりがない。わからないものをわからないままにしてあるからだ。



船越原理主義者にとって、若尾に狂うあまり岸田に虐待される船越は哀れである。岸田&船越の夫婦漫才をいつまでも見ていたいのにもかかわらず、それを妨害する若尾が憎い。そもそも何だってこのふたりはこんな造形の軽い女へ夢中になれるのか。受け手の憎悪は密かに若尾へと誘導されているのだが、同時に、保造はこの憎悪を若尾への個人的報復と取ってもらいたくもない。したがって、誘導すべきものはほかにあるはずだ。



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『卍』は保造という宇宙の膨張を追った物語でもある。岸田が保造菌に感染し、川津祐介がこじれながらも取り憑かれ、ついに船越に感染が広がった時点で、若尾はただひとり保造宇宙から閉め出されてしまう。この三人が面白すぎて、若尾は空気となるのだ。




ここまでは小沢栄太郎が大爆発した『妻は告白する』と似てなくもない。理解できなくなった造形から理解できる造形へと物語の視点を導く水路が開かれている。しかし、今回の若尾には、小沢を狂わせたような忌まわしい造形の詳細がない。若尾の内面に導かれてもそこには何もない。たとえば三人が心中する寸前、完全にキレた岸田&船越夫妻は若尾観音に拝跪する。フレームはやがてこの二人の肩越しにいる若尾の眼差しへ寄り添う。若尾には表情が無くてそこから考えを読みとることはできそうもない。



けれども若尾の無表情が手前にいる岸田夫妻の顔芸と並んだとき、われわれは若尾の気高い孤独に立ち会っている。岸田も船越もみんな保造宇宙に旅立ち若尾を置き去りにしてしまった。自分ひとりが、保造宇宙のコアであるからこそ、保造宇宙に抱かれることがない。若尾をそこに見出さない限りにおいて、われわれは若尾を認めることができたのである。



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若尾が再婚して間もない頃だったと思う。わたしは二人と同席する機会を得て、随分と不躾だったのだが、どうして二人は一緒にならなかったのか尋ねてみたことがあった。



保造は赤くなって頭を掻いた。



「商品に手を出しちゃいけない」



若尾は穏やかな笑顔を浮かべたままだったが、保造が退席した後、ぽつりとつぶやいた。



「わたしたち子どもだったのよ」