恋と技術の無差別付託 『パガニーニ 愛と狂気のヴァイオリニスト』


バーナード・ローズの格調のない演出に戸惑ってしまった。ジャレッド・ハリスの懇々たる説得が始まると劇伴が盛り上がってきてキャラクターの感情を説明する。ロンドンに行けば霧、紅茶と紋きり感甚だしき記号がヒューモアを醸す。乳繰り合いが始まるとやっぱり劇伴が盛り上がる。


冒頭の場面を落としてしまう構成もあり得たはずだ。ジャレッドがデイヴィッド・ギャレットを口説き落とすのだが、落ち目にあるそのギャレットと次の場面で博打に狂う彼が同じ人間に見えてこない。人格が一定しないことは劇中でも自己言及されていて、シャーロットが「あなたは本当は誰」とやる。ギャレット自身、技術の非属人性を示唆する。人格が技術を獲得するのではなく技術が人格へ憑依する。そのさい、技術は人格を選ばない。どんな人格でも構わない。キャラクターの造形のなさも記号的誇張もここで話と接点をもってくる。人格ではなく形式があるばかりである。音楽が造形をもたらす。


造形の信用できない可変性には功罪がある。ロンドン公演では信用できないことが緊張と浄化をもたらす。


幕が上がってもギャレットは出てこない。楽屋に行けばもぬけの殻である。ギャレットの信用できなさを散々見せつけられているわれわれは、クリスチャン・マッケイとともにこの行状に絶望と憎悪を抱いてしまう。しかしそれが浄化の仕込みなのだ。この人はサイコパスか否か。かかる不明瞭さがスリラーになる様式が使われている。


演奏が始まるとシャーロットがメス顔になるのもいい。人格がないからわかりやすい。わかりやすさがそこではヒューモアとなる。だが残念なことにここがピークアウトになっていて、一層のこと、ロンドン公演の前後だけに限定した記録映画風の体裁でよかったのではないかと思わせてしまうのである。これ以降、造形のなさが今度は仇となってしまう。ギャレットがシャーロットに恋をしてそれが悲恋となる。ところが、これがわからない。シャーロットの技量に彼は惚れたことになっている。しかし劇中では彼女の技量が同時に客観化されていて、なんでこの技量に惚れたのか受け手に不審を抱かせるようにもなっている。しかも博打と女狂いの造形からこの初心さを演繹できない。造形性のなさが悲恋のもっともらしさを阻害してしまう。ギャレットの乱行が亢進しても、なぜそこまで恐慌を来すのかこちらにはわからない。


こうなると、彼の造形のなさはジャレッド・ハリスの造形の強固さを引き立てる方向へ働く。どんな乱行に際してもジャレッドは困らないから、今度はどう切り抜けるか、最後まで困惑顔をさらさないでいられるか、という人間性の持続を試す展開に興味が惹かれてしまう。


われわれの期待通り、ジャレッドは最後まで取り乱さない。しかしこれも困ったことに、首になっても顔色を変えず退場というオチであるから、確かに彼の人間性は一貫したのだけど結局なんだったのかという腑に落ちない余韻が残ったのである。