記号を克服する男たち 小日向文世 & 本田博太郎

『おとうと』の配役は一見したところ様式美の世界である。ホスピスの経営者に小日向というのが如何にもで、「また死神扱いかよ」なネタとして笑っていられる。ところが鶴瓶の臨終に至ると、山田洋次のリアリズムによって彼の死神振りが斜め上になり、微笑を凍り付かせる。あの状況で冷静に写メを撮るという行為自体も評価に困るが、その不可解さで小百合の頑強な顔が「えっ、何なの?」と突き崩れ、台風の目のような静寂が訪れる。この気まずさが邪悪であった。



沈まぬ太陽』の配役の投げやり度は、山田洋次の比ではなくて、配役の安易さがむしろ狂気に転化している。香川照之と多江の不幸配役くらいでは、何も考えてねえ感が微笑を誘う程度で済んだ。しかし、御巣鷹山に機長小日向を突っ込ませるに至っては、その不謹慎に微笑が凍る。



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ムショを出たら弁護士の博太郎がニコやかに待っている。(『刑事追う』)。あるいはホスピスを訪れると文世がニコやかに迎えてくれる。われわれは一目の内に、もう全てが終わったと知る。鶴瓶は本当に終わったという実感に見舞われる。記号化が状況を円滑に説明しているのだ。



予測できることが物語の厚生にどう資するかは意見の分かれるところだろう。だが、たとえ先読みがエンタメを損なうにしても、このケースの博太郎&文世は、われわれの想像をはるかに超えるを凄惨な結末を導くことで、真っ向から客との勝負に挑み、男前を上げるのである。