徳が敵意を越える

 成人した秀頼に家康が初対面する場面が司馬の『豊臣家の人々』にある。秀頼がどんな男に成長したのかドキドキの家康は、駕籠から出てきた長身のイケメンを目の当たりにしてうれしくなってしまう。凛々しさを好む時代の習性が秀頼への敵意に勝ってしまうのである。『ア・フュー・グッドメン』(1992)のニコルソンを思い出してもいい。チャラ男だったトム・クルーズが終盤でマリーンの顔になっている。ニコルソンは微笑を洩らしてしまう。
 徳が敵意を越えることはある。
 2010年、栗山千明玉山鉄二交際の報に際し、わたしは不可解な情緒に襲われた。劇場の『ハゲタカ』(2009)共演が交際のきっかけだったのだが、当時、栗山千明を思慕していたわたしにとって玉山は憎悪の的であるはずだった。ところが出てきた感慨は、玉山なら仕方がない千明を譲るという諦念じみたものだった。それだけ『ハゲタカ』の玉山の男ぶりが際立っていたのだ。
 それから歳月が流れ、わたしは小松菜奈が好きで好きでたまらなくなった。
 小松主演の『さよならくちびる』(2019)のことは前に触れた。この話の小松はマンガのような人で、引っ掛かる男が皆DVで彼女は生傷に絶えない。この小松が、ローディの成田凌に入れあげるのである。小松が好きでならないわたしには不快な状況だ。しかし成田は、塩田明彦の邪念を煮詰めたような好人物で、DV男から小松をサルベージすべく安アパートに乗り込んでは、DV男と格闘するかっこよさなのである。これなら小松が参るのも仕方がない。わたしは観念したのであった。


吉田健一 長谷川郁夫の吉田健一評伝に次のような話がある。時は第五次吉田内閣総辞職直後、これまで政治時評を避けてきた健一は、内閣批判を繰り返す進歩派知識人とマスメディアへ憎悪をむき出しにする。曰く、吉田内閣の最大の罪はいつまでも続いていることであって、実証できる内閣の悪事など皆無ではないか。
 健一によれば講和条約当時の茂は骸骨のような姿だったそうだが、引退するとこれが豚という他ない太り方をする。健一は父のその姿に安らぎを覚えてしまう。

兎に角自分がしたいことを皆してしまつた人間といふものはいいものである。その安らぎは人にも伝はるものでもし動かし難いといふことがさういふ場合にも言へるものならば父にはその意味で動かし難いものがあった。

 結果はどうであれ全力を尽くせば安らぐことは、よく知られた現象である。健一はその安らぎに外部性(?)を発見している。徳は孤立しないのである。