『渚のシンドバッド』(1995)

 田舎に隠遁した浜﨑あゆみを男どもが追う場面は、ギャルゲの懐かしい感じがした。各方面に影響は与えたのだと思う。この浜崎はおそらく『放浪息子』の千葉さおりの原像でもあるのだろう。今更ながらそういう学びがあった。
 しかし悲痛な設定の割には慰藉の余地は大きい。ゲイの岡田義徳は親友の草野康太に拒まれる。他方で岡田には浜﨑の好意が向けられ、浜崎には草野が懸想している。循環構造が悲恋を中和している。
 『メゾン・ド・ヒミコ』(2005)の疎外はこの循環の変奏だったといえる。柴咲コウはオダギリに惚れる。オダギリも柴咲に好意はあるが、ゲイである彼は性愛に至れない。オダギリも柴咲も互いに疎外されてしまう
 『渚のシンドバッド』も同じことになる。岡田に求められ性愛を試みた草野は生理的嫌悪感に屈する。この場面、理屈優先の嫌いがあって友愛と官能の統合と分離を巡る禅問答が始まってしまう。
 草野と浜崎の間でも同構図が踏襲される。ラストの浜辺で草野に襲われた浜崎が同じ禅問答で草野を拒む。曰く、草野はわたしの官能に反応しただけであると。やはり理念優先の感がありピンとこないのだが、やりたいことはわかってくる。疎外の循環で悲痛を中和するのは友愛から官能美を分離して抽出するがためである。
 ラストでは愈々、疎外の循環が熾烈になる。
 草野が浜崎に辛抱たまらなくなる異性愛の構図によって、LGBTの岡田は疎外される。悲嘆した岡田は自身の海没を試みる。草野は岡田を引き上げ心肺蘇生を試みると、偶発的に成立したこのBLに今度は浜崎が疎外される。三者三様の疎外を互いに認識し合った彼らは不幸の共有に基づく連帯を覚える。疎外の円環は官能から友情を遠心分離した。官能を伴わない友情は成立するか。物語はこの課題に挑んでいたのである。


 『エッジウェア卿の死』は事実上の倒叙である。容疑者の女優の造形から、アガサお馴染みの女性の二面性物だとすぐに判然となる。しかし『ポワロ』の文脈からすれば女性の二面性をここで扱うのは都合が悪い。
 ポワロではこのネタはヘイスティングスの成熟問題と常に関わってきた。女性の二面性を知ることで、彼はオスとして成熟していく。ところが、エッジウェア卿ではヘイスティングスは既に脱童貞済みで成熟問題は解決を見ている。二面性は空回りせざるを得ない。
 犯人の女優は容疑から免れるべくポワロに言い寄る。「わたしを守って」云々と。終盤で女優の二面性を暴露したポワロは嘆じる。貴女を貴女から守れなかったと。
 成熟問題として用いられてきた二面性がその課題を失った結果、人格の解離を扱うような思索的話題に至ったのである。