タニス・リー 『銀色の恋人』 Silver Metal Lover [1981]

The Silver Metal Lover
 ふたりの機能性を競合させて、比較的に劣った機能を貶めるとする。これが、歓楽劇の標準的なテンプレであることは理解されるのだが、実際にかかる語りを運用するとなると、何を以て彼を機能的と描き得たのか、知らねばならぬし、反対に、どんな行動を以て語れば、彼が機能性に欠けると読み手が認知してくれるのか、色々とストックを蓄積せねばならぬ。
 複数の機能性の優劣を利用した場合、対応する複数の機能的なる風景を用意せねばならないだろう。が、単一の機能性だけだと、機能性そのものの質が問われかねず、要求される情報量の高まりが語り手の参入障壁を高めかねない。対して、対峙した機能の気高さと下劣さは、それぞれが双方に及ぼす相対的な効果を享受することもできるだろう。一方の機能性が目に余るほど劣るために、他方の何気ない特性を機能的に語ることができるかも知れぬ。


 タニス・リーがここで運用した語りだと、人を善良に語るよりも、人格のニクニクしさを執拗に語る技術の方が突出したように思う。物語で、人格に善性を付与すべく人に機能性を発揮させた舞台とは、家出に伴う求職行動であり、反対に、人格を貶めるべく用意された反機能性とは、機能的な資質と社会的地位の不均衡に由来する倫理的な憤慨ともいうべき風景である。後者はおかんの教育工学の破綻として具体的に現れ、前者の家出する娘と連接している。社会的な地位を獲得するに有用だった手法を、そのまま別の分野に適用し挫折したのだった。
 かかる錯誤は、娘どもの何気ない機能性よりもかえって機能的に語られるため、反機能性へのアプローチは、直截にそれを語ること、つまり、機能性の劣ること自体を利用して為されたというよりも、行為の誇大さが彼女固有の機能性の水準に見合わないことの不快を利用して語られた、といえる。そうして、かかる誇大さを罰する変数として設定されたのが、ドジ娘の家出行動なのだ。