マチスモの王国 『ア・フュー・グッド・メン』とウテナの暁生さん


『ア・フュー・グッド・メン』は、ジャック・ニコルソン大佐という人間を発見する物語である。隊内の暴力制裁の実体を解明すべく、グアンタナモに乗り込んだトム・クルーズのニヤケ顔は、ニコルソン大佐の顔芸に圧倒されてしまう。わたしたちは、ニコルソン大佐の正気でないマチスモに、リーガル・サスペンスを越えた謎を見出すのである。なぜこのような基地外が昇進し得たのか。こんな狂人が大佐になれる世界とは何なのか。



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初出のアップショットからニコルソン大佐は飛ばす。ヘロインルックのジト目と多幸感に緩む口元は、職業軍人というよりも依存症患者の顔である。わずか5秒ほどのカットで、何かおかしなことが起こっていることを、わたしたちは把握させられてしまう。デミ・ムーアにも白昼堂々とセクハラを敢行し、90年代初頭とはいえ、正気ではない。



ミスマッチな演技は余りにも酷いので、ジャックの余興かとも思いたくなるのだが、これらの凶状が全て演出意図だとすれば、大佐の不合理には意味があらねばならぬ。そうでなければ、戯画化された大佐の造形が、本作のリアリズムを根底から覆しかねない。疑うべきは、情報の非対称性の介在である。昇進を可能にした大佐の資質が、受け手であるわたしたちには見えていない。



物語は、ニコルソン大佐の自意識を発見するかたちで、大佐の秘匿された造形を表現しようとする。法廷劇というフォーマットの要請から、それは徐々に発見されるというよりも、終盤の法廷で、一気呵成に爆発してしまう。トムの幼稚な誘導に引っかかり、ニコルソン大佐は犯行を簡単にゲロってしまうのだ。



わたしたちは本作のシナリオと造形力の水準に落胆しかかる。大佐はやはりただの基地外だったのか。しかし、この爆発には奇妙な感情の惹起も感ぜられる。大佐の感情的反応には、何か愛らしさが含まれないか。大佐を愛さずにはいられなかった、マリーンというマチスモの輪郭がそこに現れ始める。



ニコルソン大佐は絶叫する。



「お前たちには奇怪に見える存在が、お前たちを救っている」



ここで発見された大佐の自意識と知性は、自らの仕事の忌諱性とその自覚を訴えている。大佐を奮い立たせるのは、誰もやらないことをやっているという稀少性の感覚である。



物語は、大佐の造形を合理化することで、シナリオの技術的な課題をクリアする。ニコルソン大佐はあくまで罰せられねばならない。しかし、大佐の人格を貶めることがあってはならぬ。物語の主題を語る敵対者の人格はあくまで一貫させたい。それが担保されなければ、物語の価値観の前提が崩れてしまうだろう*1



ニコルソン大佐の自意識は、また、感化というかたちで波及し、社会的な奥行きを表現する。



激昂した大佐はトムに襲いかかり、MPの掣肘を受けながら、呪いの声を上げる。ところが、その鼻先にあるものは、もはやニヤケ顔ではない。トムがマーリンの顔をしているのだ。気圧されてしまった大佐は、思わず微笑するという反応を示してしまう。頭では憎悪しても、大佐のマチスモの肉体は、うれしさを否定しようもない。大佐はこのニヤケ顔を一人前のマリーンに叩き上げてしまったのだった。



大佐のマチスモは、トムに波及し、ついには受け手をも洗脳しようとする。リーガル・サスペンスは、『G.I.ジェーン』のような、遡及的な教官物へと変貌する。



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ウテナ』の最終話を見るたびに、落胆することがある。最後に暁生さんの造形を矮小化したのは間違いではなかったかと思うのである。



物語の主題を引き受けた敵対者を動揺させるのは好みではない。小物化した敵対者は物語をも矮小にしかねない。こんな小物を相手にいったい何を戦ってきたのか、そのような感慨が話を台無しにするのである。



自分が成し得なかったことを果たそうとするウテナに対し、暁生さんには動揺してほしくなかった。欲しくてたまらない才能を他者に見出したとき、才能そのものに対するよろこびが嫉妬と羨望を越えてしまう、あの高潔な感情*2をわたしは暁生さんに見出したかったのだ。



ウテナ亡き後の理事長室で、暁生さんはアンジーに負けを認めて欲しい。そしてわたしの妄想の中では、学園を去るアンジーに、暁生さんは祝福の微笑を送ることになっている。