スコット・フィッツジェラルド 『グレート・ギャッビー』 The Great Gatsby [1925] & トニー・スコット 『スパイ・ゲーム』  Spy Game [2001]

The Great Gatsby
スパイ・ゲーム [DVD]

 恋愛のために莫大な投資が行われると、やがて破局するプロジェクトの不幸をうまく把握できない恐れが生じる。投資活動のために購われた、長年にわたる忍耐と労力の蓄積が、不幸に対する耐性を醸造しかねないのである。結果、膨大な投資にもかかわらず恋愛が破綻したとき、投資対象に対する衡平感情が破られることはない。不幸への耐性は人格を決定的な狂操にいたらしめず飼い殺しにして、ある程度の思考ゲームを許容することだろう(あの宮崎あお○は、本物の「宮崎○おい」ではない!)。
 不幸を認知できないことが、かえって、不幸の鈍痛を物語として記述するわけだが、人妻となった元カノ宅の灯火を遠く眺めてメソメソするような措辞が、歓楽劇として評価するとなるとどうか、という向きには、このイヤイヤ感はつらい。つまり、恋愛のために行われる莫大な投資の切なさは保持されるべきとしても、かかる資本投下にもかかわらず不幸への耐性が生じない仕組みもまた欲しい。では、耐性に帰結しない一定期間の投資活動とはいかなるものか。そこで『スパイ・ゲーム』('01)の話となる。要は、投ぜられた労力を瞬間のうちに転義することで、不幸への耐性依存を語らない、という考え方だ。レッドフォードにとってそれは老後の資金であり、まさか、ブラビとのやおいに投じられるものとは想定されてない。


 ギャッビーの投資は、当然ながら、元カノを夫から隔離する活動であった。それに比して、レッドフォードの散財は、かれにとってラヴラヴでたまらぬブラビと元カノの縒りを戻す方策に他ならない。そこにあっては、三角関係の生け贄キャラ化が、自らの意志で能動的に行われたように思われる。