秒速五十三光年 宇宙をかけるスペルマ 『言の葉の庭』


作者が自分を投影する主人公に、ヒロインが「やさしくしないで」とすがりついてくる。女に与えた自分の感化にナルシシズムの喜びを認め、作者は打ち震える。恋にのぼせ上がるヒロインの視点は、自分の男前を上げてナルシシズムを煽るための作者のズリネタである。



この手の自己陶酔は誰にでもあるだろう。しかし、わたしたちは、ナルシシズムを病的なものだと捉えるよう躾けられている。わたしたちの自意識は自分を愛したいと願うが、同時に自分を病的に見られたくないとも欲する。病的に見られては、自己愛が達成できない。したがって、自意識は、自己愛の発露とともに、これが病的なふるまいであると自覚していることを外にアピールせねばならない。そうすることで、精神の平衡を保たねばならない。



そこには創作という活動の矛盾がある。自意識という内省的な活動がなければ、物は語れない。他方、外聞を気にする自意識はわたしたちの欲望を監察し、規制しようとする。真顔で語れば恥ずかしい野蛮な原初の情緒に、外面を保ったままいかに接近できるか。作者はその技術を試されることになる。



自意識の束縛を免れた新海誠の課題は、通常の語り手のそれとは、まったく逆のものである。ヒロインに「やさしくしないで」と言わせてしまう。自意識があればこれは不可能な表現だ。ナルシシズムをここまで赤裸々にすることを自意識は恥だとするはずだ。もし可能だとすれば、作者の自意識はよほど希薄に違いない。



ここにまた創作の矛盾が現れてしまう。不活発な自意識によって、通常では不可能と思われるような病的なナルシシズムが発現し得た。ところが、このような自意識の真空地帯が、物語という内省的な営みをどうして達成できようか。



星を追う子ども』にわたしたちは驚く。オマージュだからと言って、そこまで模倣を徹底する必要がわからない。それは自意識なき語り手が、それでもなお物を語りたいと欲した祈りのようなものだ。創作の営みを自意識ではなく形式に外部委託することで、自意識の真空地帯が物語を成立させてしまう奇観が出現するのだ。



悲壮な形式主義である。だが、生まれながらのオプティミストの彼は、無邪気に信じつづけている。形式に魂が宿る瞬間を。



わたしたちはその成否をすでに知っている。



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ヒロインの魅力が、主人公だけではなく、受け手一般にも開かれねばならぬ課題*1から検討すれば、『言の葉の庭』には、「桜花抄」冒頭を希薄化したような印象を受けてしまう。タカオ君は、はなざーのどこに惹かれたのだったか。彼がはなざーに惹かれる様子はわかるのだが、それこそ「桜花抄」のように、タカオ君の恋は、男女の談笑する遠景をモンタージュ処理するうちに生じたような語り方をされるため、はなざーの魅力はタカオ君の中で独占されてしまう。タカオ君がわざわざ台詞で「どうしても惹かれてしまう」と説明せねばならないほど、はなざーにはなかなか実体が出てこない。話の視点がはなざーへ移されたところで、神経性の味覚障害等のいかにもな記号が出てくるばかりで、かえって尋常の無さが高まるばかりだ。「何度メールをしても少しも近づけない」のである。



ヒロインの空虚さは、『秒速』の素晴らしさを高らしめるものであった。空虚なものが空虚なまま、希少性を高めてしまう創作の妙。空虚だからこそ辛抱たまらなくなってしまう病的な感覚。対して『言の葉の庭』はどうか。キャラクターの空虚感の利用は明らかに失敗しているように見える。しかし、失敗が露骨すぎるために、女の実体のなさにはより積極的な作為があるように見える。はなざーは何かを隠している。いったい何を隠しているのか。なぜ隠さねばならないのか。クライマックスでその謎が露見したとき、わたしたちはこの物語のおそろしい正体を知ってしまうのだ。新海誠フィルモグラフィー最凶の病理性を誇る「コスモナウト」の襲来である。



はなざーは作者のナルシシズムのために、その人格性を生贄にささげられた被害者であった。タカオ君の告白に際して、唐突にミサト声で教師面をするはなざーの醜態は、その最たるものだ。これまで、はなざー視点に語りの資源を散々配分したにもかかわらず、告白に対して突き放した反応をはなざーにさせる作者の意図は、わたしたちを混乱に陥れる。



タカオ君(新海誠)は糾弾する。恋の優位性をめぐって虚勢を張る童貞性の粋(みっともなさ)を。はなざーの実体のなさや、職場のトラブルの原因がその虚勢の指摘によって合理化されるのだが、それに対するはなざーの反応は壮絶といっていい。タカオ君の辞去に、はなざーは驚愕の声を上げ、花苗化するのである。そう、これは「コスモナウト」だったのだ。我慢に我慢を重ね前戯をつづけてきた新海誠が、ついにパンツを下したのである。『秒速』でいうところの「やさしくしないで」でありバーボンである。



はなざーには、タカオ君との離別に悲嘆する感情はもちろんある。しかしまた、驚きはそこにとどまらない。おそらくはなざー自身、タカオ(新海誠)に対する自分の花苗性(やさしくしないで!)について、初めて知ったはずである。すべてはタカオ(新海誠)の妄想に操られていたのだ。



はなざーの露骨あまりある好意の表現を見逃すはずもないのに、あえて気づかないふりをして立ち去るタカオ(新海誠)。はなざーが自分にゾッコンなことをもはや知り尽くしていて、それがはなざーの驚愕への抑制的な反応につながっている。なぜ知るのか。タカオは新海誠自身にほかならぬ。果たして、踊り場でなぜか待ち構えているタカオ(新海誠)。その好男子の顔容に漂う邪淫をぎらつかせたナルシシズム



御苑を上昇するカメラに重なって、タカオ(新海誠)のたらし込みが、レトロスペクティヴに重なる。カメラワークが、前立腺の内圧の高まりに連動している。これは初めての経験だ。秒速にはあり得なかった激しさである。早朝のバルト9、シアター6のスクリーンから特濃の大スペルマが、客席に向かってほとばしった。わたしはそのとき、新海誠のスペルマを確かにこの顔面に感じたのである。



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秒速は乾いたオーガズムの物語である。「コスモナウト」の「やさしくしないで」でいったんは達したモテキ君は、「秒速」では弛緩した事後の顔をさらし続ける。しかし、幸福な余韻に浸るうちにバーボンの吸引でまた盛り上がってしまい、山崎まさよしをズリネタにして、ふたたび発射する。



言の葉の庭』は、一瞬にして達する男性的なオーガズムの物語だ。だからこそ、はなざーの人格性は、香苗のそれと違って、秘匿せねばならなかった。



最初から花苗の視点に集約された「コスモナウト」では、花苗は動揺しまくることで、作者の陋猥な性欲を縦横無尽に刺戟した。ところが、はなざーにおいては、タカオ(新海誠)に対する性急な官能は禁止されていた。受け手を油断させることで、突発する射精を壮絶なものにせねばならぬ。というより、壮絶なものにせねばならなかった。御苑上空にむかって噴出するスペルマの奔流は、ナルシシズムにとらわれた男が、それでも人でありたいと叫んだ人間宣言である。はなざーは、男のスペルマによる花苗化を経て、はじめて血肉を獲得するのだ。ただの記号ではズリネタにはなり得ない。ズリネタにはズリネタたる信憑性が必要である。だが、こう解釈することもできる。記号に過ぎなかったズリネタが、ズリネタ性を極めることで血肉に到達する。



スペルマを天空に噴出させながら、新海誠は叫び声を上げる。スペルマの飛翔を以てしか、自分は人の形を描き得ない。だとしたら、力の限りのオナニーで、この地上にスペルマを届けたい。薄汚れた地上を純白のスペルマで埋め尽くしたい。



新海誠の、わたしが敬愛してやまぬ病的な誠実さは、オナニーという自閉的な営みの向こうに、外部環境との連帯を夢見ている。自意識がないのに物を語れる。それは技術という人間に与えられた赦しであり、恩恵である。



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先生のことだから、次作はまたやらかすかもしれない。また、本作が「コスモナウト」に準拠するように、秒速は規格外の作品であり続けると思う。だが、そんなことはどうでもいい。新海誠という生命の奇観の詠う人間賛歌は、これからも人類に、人であるということがどんなに類まれなることか、語り続けてくれることだろう。