不能の唄 『ザ・マスター』


ホアキン不能にしてしまった事件を追体験することはむつかしい。彼がこむった戦禍を受け手は経験しえない。話はホアキンの主観から始まってはいるが、感傷の追体験ができない以上、外からの観察によって感傷の参与を試みるしかない。シーモアの役割はホアキンの感傷の指標となることであり、ホアキンの特殊な内面の課題を普遍化することにある。けれども、シーモアの内面へ話が移ると、今度は、シーモアなりのドメスティックな課題が出てくる。世間の不理解である。シーモアに比すれば根源的とは思えないが、ホアキンの救済にシーモアが取り組むことで、ふたりは互いに感傷を参照し合う。


わからないものをわからせねばならない。それは例えば、ホアキンシーモアの対比で生じる遠近感の歪みとして顕れる。依存症で縮んでゆく体に、濃厚な顔貌を湛えたホアキンの頭部が乗っている。これがシーモアと並ぶと奇妙な感覚に襲われる。ホアキンの濃厚な顔貌は彼を偉丈夫と錯覚させる。ところが、シーモアと並ぶと小柄なのである。

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戦争は終わった。しかし、ホアキンは許嫁のもとへ戻らない。当人にはその理由がわからない。観察して明らかとなるのは、戦禍の遺した心神の喪失である。彼は働くことができない。


そこにあるのは、自然選択にまつわる物語だ。


石器時代から変化がない人間のマインドセットは、石器時代にはあり得なかった近代戦という事象に対応しきれない。ホアキンは壊れてしまった。結果、彼はエコロジーの問題に遭遇してしまう。ワナビと恋愛がトレードオフであるように見えて、実は正相関する問題である。けっきょく人には仕事ができる異性に惹かれる特性がある。この点で、ホアキンは恋を諦めねばならなくなる。彼は仕事ができなくなっているのだ。


自然選択の物語へホアキンの内面が互換したことで、シーモアの課題も整理される。シーモアが戦っている相手がわかってくる。シーモアの目論見は、自然を超えることにある。彼は淘汰圧を拒絶したい。


シーモアの時間観念は、変化へのかかる拒絶とリンクしている。時は流れない。あるのは思い出だけだ。彼は思い出すことに逆説的な自由を見出そうとしている。ところが、ホアキンにおいて体現された自由は、不安の形象をともなっている。


宿命が認知できるのは、あらかじめ知っていたからだった。シーモアは、別の人生でふたりが友達であったことを思い出したのだ。いま、目前にいるホアキンは、自由と称される宿命を抱え込んで、朽ち果てようとしている。宿命に立ち会った人間の勇気と絶望を湛えながら。