恋するブロンソン大陸 『新世紀エヴァンゲリオン』

エヴァンゲリオン』がどうもわからない。少年の煩悶する理由がよく伝わってこないのである。放映時にも薄々気になってはいたのだが、後年、見返してみてると、作品との距離感もあって、シンちゃんの悩みに実体が感ぜられず共感を得られない。


親父との不和を彼は気にしているようだ。では、コミュニケーションの不全に類する悩みかと思えば、そうでもない。級友たちとの様子を見れば、これは当てはまりそうもない。不和はむしろ親父の鬼畜な性質に由来するのであって、事はあくまで少年の責任の範疇外にある。あるいは、それは戦役による心神喪失の結果であり、やはり当人の負の気質により招かれたものとは思われない。にもかかわらず、少年はクヨクヨを自分の気質に還元しようとする。物語は少年の人生の課題、つまり当人に災厄をもたらすような負の性質を焦点化する。しかし、災厄は少年の性質に起因しないから、悩みに実体がともなってこない。


「逃げてはいけない」は、当人が述べるように語り手自身の経験の投影だろう。かかる経験が、語り手の課題を投影する少年の経験と乖離すように見えるため、少年の悩みに実体が見えてこない。キャラクターの思考に語り手の人生の課題が投影される一方で、彼の行動や気質にはそれが投影されないのである。この分離は、夏エヴァの劇中挿入歌の詩に如実に表れていると思う。


夏エヴァの Komm, süsser Tod の詩が当時のわたしにはわからなかった。この違和感は今でも鮮烈に残っている。詩は悲恋を謳っているらしいが、作中にその感覚は見出し難い。語り手の人生の遍歴から推測するに、詩から窺える悲恋こそ、話に投影したい彼自身の人生の課題だと思われる。語り手がそれを直截、作中に表現しようとしないのは、物語を私小説にはしたくないまっとうな商業精神の現れだ。語り手の商業精神は、彼の抱える人生の課題を作中ではあくまで傍流のエピソードに抑え込もうとする。


夏エヴァの製品版を見て冷めてしまったことは前に触れた。後年、テレビシリーズを見返して、シンちゃんの実体のなさに戸惑ったのも先に述べた通りだ。ただ京都編だけは、見返してみて妙に生々しく思われた。好きな女には男がいて、彼はその男を嫌悪するが、女は男のことを「可愛い人」と評する。後年、彼のもとに男と女の結婚を告げる便りが届く。この生々しさは作中において突出しているように感ぜられた。ようやく作中に作り物ではない人物を見たような心地がした。おそらく京都編を見入ったのは、わたしの加齢のせいだろう。加齢の結果、わたしの抱える課題が語り手の課題と交錯して、そこに人生の課題の実体を見取ったのである。その課題とは、端的に言えばこうである。


どれほどの速さで生きれば、きみにまた会えるのか?


トップを作っても、日高〇り子を墜とせなかった。エヴァを以てすら、み〇むーを墜とすことはできなかった。ならば、いったい何を以てしたら、愛は報われるのだろうか。男女の間に永遠に埋めることのできない成熟差を見出すとき、そこには恋にたいする固定的で宿命的な認知が働いている。男にとって事態はいつも手遅れなのだ。


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秒速5センチメートル』とは、先に大人になってしまった女の物語である*1。女にとって、あの恋はとっくに終わっている。あの恋を行った人間と今の自分は別人である。男にとってみれば、その恋は今なお続いていて彼を束縛している。あの自分と今の自分は同じ人間である。この同一性は否定されねばならない。それが物語の結論である。自分を他人と考えることが倫理性の根拠となるからだ*2


男は、ラストの踏切でようやく女に追いついている。しかし、女にとっては、そこですら通過点でしかない。ようやく男が理解できても、女はすでに立ち去っている。そのような形でしか理解がやってこない。


失恋した男の顔というものがある。彼らは一様にして自己を憐憫するような顔をしている。彼らは彼らなりのブロンソン大陸に上陸したのだが、それは間に合わなかったことで到達できる場所であり、彼らは今それを知ったのである。