楽天知命 故不憂

神学大全I (中公クラシックス) 全能なる神は全てを予知する。これが人間の自由意志と相容れない。先日、トマス・アクィナスを読んだところ、スコラ学を悩ますこの話題に際し、彼は昔のギャルゲ論壇のようなことを言っていた。曰く、自由意志つまり選択とは時間に付随する現象である。ところが神には時間の概念がない。
 どういうことか?
 詩劇の筋は時間的過程を前提とする、とアリストテレスがいう。時間の観念を有する人間にとって、事柄は常に継起的に表れる。未来は見えない。
 神は時間ではなく空間的に事柄を把握する。人間にとっては継起的に生じている事柄が同時に存在するものとして認識される。
 神にとって必然の事柄を時間の観念で捕捉しようとする。その際に生じるモヤモヤが自由意志と呼ばれる感覚である。


 規定であるが未知である自由意志のモヤモヤ。『ローマ書講義』でルターはこんなことをいっている。人が神の意志を阻止できないにもかかわらず、神のみ心が行なわれるように、と祈る。
 これはダメットの酋長の踊りである。事柄は既に決定済みである。しかしながら(だからこそ?)祈らずにはいられない*1
 大森(1996)に拠れば、過去に発生した出来事はそのままでは過去の事柄にはならない。過去は一定の手続きを経て物語の形に制作される。そうでないと過去を認識できない。この間隙を祈りが埋めていくのである。


 アクィナスにとって自由意志は時間の観念がもたらした幻視である。
 ルターにとっては、必然を知ることが自由になる。必然の客体として自己を認識すると自由が生まれる。
 アウグスティヌスはいう。自由意志は奴隷的意志に等しい。
 わかりにくい考えだが、いかなる行為が自由の感覚をもたらすか、検討すればよい。たとえば、正義にかなう行為をやれば、自由を覚えることだろう。
 ウィトゲンシュタイン風に考えれば、行為者にとって正義に思える行為は選好の体系という全体的な秩序のなかでのみ成立する。自由だと思われる状態が社会的に規定されていて、選好の体系に隷属せねば自由は成立しないのである*2


 ギリシア人にとって不健康であることは、肉体的必然に従属することを意味した。
 非内省的な古代中国の文人は、かかる必然を受容しようとした。曰く「天を楽しみ命を知る、故に憂えず」
 人の伸びしろは遺伝要因にある程度は制約されている。しかし、どの程度の伸びしろを自分が有するか、これは尽力せねばわからない。
 ここにおいて易経はカルヴィニズムを思わせるノリになる。伸びしろの幅が期待にそぐわぬとも、その輪郭を知ること自体が安らぎをもたらすと解釈する。


 あとは余談だが、神には「選び」がないとルターがいうとき、必然が神の全能と相いれないように見えかねない。神が神の必然に規定されている。しかし全能は規定されるのか。
 アクィナスの無時間の観念がここで援用されてくる。全能と必然が撞着するモヤモヤをルターは留保と呼ぶ。自由にいっさいの上に神はみずからを留保する。
 つまり Se Dio vuole (2015)の結末である。英訳だと God Willing であるが、この映画、神の意思が下される寸前で終わるのである。

*1:大森荘蔵(1996)『時は流れず』青土社

*2:黒田亘(1992)『行為と規範』勁草書房