伊藤桂一「大隊長、独断停戦す」『かかる軍人ありき』

 近代の心性とは商人のエートスである。
 『タンポポ』(1985)に安岡力也がラーメン屋の改装を請け負う場面が出てくる。このとき、店主に好意のある安岡に対し山崎努が注意をする。曰く、金は当人に払わせろと。もし好意から無料でやってしまうと彼らの関係は徒党に堕ちてしまう。山崎はそれを恐れたのである。
 近代の心性は徒党を何よりも嫌悪する。
 ホッブズコモンウェルス下の私兵を主権侵害として忌み嫌うのだが、彼はかかる集団を徒党と呼んでいる。


 おそらく陸士中隊長の時分に辻ーんが「家来にならないか」と真崎甚三郎に勧誘されたことがあった*1。辻はそれをはねつけた。「閣下の家来になる前に陛下の家来である」と新井白石が嫌がるようなことをいった。参謀本部の下っ端将校の時には「郷里は何処か」と訊かれると「私の国は大日本帝国であります」と返した。毀誉褒貶の激しい辻ーんであるが、徒党や地縁に対しては妙に潔癖なところがあった。
 近代とは地縁や血縁を介在させずに信頼を醸成する仕組みのことである。
 田辺新之という陸軍の暗号屋がいる。この人は辻ーんとは同期の盟友であり、やはり奇人である。昭和17年には特務の経済課長をやって、19年には大東亜省に出向して調査官として上海に駐在。同年秋になると大隊長として浙江省に赴任する。
かかる軍人ありき (1979年) 先に言及した伊藤桂一『かかる軍人ありき』にこの大隊長田辺が登場する(「大隊長、独断停戦す」)。その話が、NF文庫なのに新制度派経済学ケーススタディのようななろう系なのである。
 田辺はまず鉄道沿線の遮断壕を埋め戻してしまう。遮断壕は現地住民に評判が悪い。耕地はつぶす。村間の交通を遮断する。補修に金と人がかかる。それでいてゲリラは結構もぐりこんでくる。
 遮断壕を放棄した結果、住民感情が好転する。付近村落の若者たちが警備を買って出るようになり治安はかえって改善。この様子を観察していた匪賊も停戦を申し込んでくる。田辺は停戦どころか匪賊の部隊に将校を派遣して匪賊兵に訓練を施し警備任務を移譲する。警備から解放された兵力は米軍の上陸を控えての陣地構築等に回す。横行する日本人業者や軍の経理官による買い叩きに対しても、田辺は売買契約の監視をやって市価を守らせた。
 銭塘江の河口に田辺大隊が駐留すると経済封鎖を解かせる。援蒋物資の流入を防ぐために封鎖され寂れた港はたちまち往時の賑わいを取り戻す。この活気を搾取すべく分署を置こうとした現地警察は追い返した。現地警察だけでなく、憲兵隊も特務も断った。田辺の施策の成果を知る軍が黙認したのである。かくして銀行は次々に支店を出し町から空き家が消えたのであった。田辺は町に近代をもたらしたのである。
 昭和21年末、帰国の途に就く田辺に米国の輸送担当官が話しかけてきた。
 「帰国したら貴官は何をするか?」
 田辺はこう答える。
 「なぜ戦争に負けたか研究したい」
 近代主義者の田辺にとって敗北は近代の未達と同義である。近代が足りなかったから戦争に負けのである。したがって田辺の答えはこう言いかえることができるだろう。
 近代とは何か?

*1:高宮太平(1973)『 昭和の将帥』図書出版社