『シャッター アイランド』(2010) Shutter Island

 何の予備知識もなく見始めたのである。配役もとうぜん知らない。見てみるとレオは亡妻に呪縛されている設定で夜うなされる。そして夢の中に現われるのがミシェル・ウィリアムズの文系殺しのタヌキ顔であり、その何も考えていない配役に爆笑したのだった。なぜみなこの人に男を狂わせる役ばかり宛がうのか。


 『地球を守れ!』(2003)問題というものがある。これは幾度か言及した。荒唐無稽な陰謀を信じる男がいる。この時点で予想される話の結末はふたつに限定される。男は狂人かあるいは陰謀が事実か。どちらの帰結になるにせよ予見できることには変わりなく、荒唐無稽な陰謀を信じる男を設定した段階で負けになってしまう。
 本作も同じ瑕疵がある。話の結末はやはりふたつしかない。レオが狂人なのかレオの信じる陰謀が事実なのか。実際、出来事としてはこの範疇に収まるのである。あくまで客観的な出来事としては......


 本作はミシェル・ウィリアムズ文系殺し路線の極北ではなかろうか。生前のミシェルが精神を患う。多忙なレオは彼女の訴える患いに取り合わない。人格荒廃に至ったミシェルは子殺しをする。出張から帰ったレオは池に浮かぶ息子らを見つけ悲嘆。そこに気のふれたミシェルが「明日はピクニックよ~」と絡んでくるのだからイライラするのだが、しかしさすがミシェルで最後は文系殺しをしっかりと決めてくれる。ミシェルは半ば自分の凶行を自覚していて「楽にしてくれえ」とレオに訴えるのだ。その涙まみれのタヌキ顔を眺めながら、わたしもどれほどこのタヌキ顔に魅入られきたか改めて気づかされるのであった。(画像は『ブロークバック・マウンテン』でヒースとジェイクの濃厚接触を目撃するミシェル。この地味な奥さんな感じがかえって男を狂わせるのである)


 物語は、狂人の自覚をそのまま最期のレオにも適用することで、狂人か否かの二分法を克服しようとする。結末は予想内であった。レオは狂人だった。他方、予想を超えるものもある。自分の狂気を彼は半ば自覚していたのであり、一連の騒動はミシェルと同様に彼の死に場所探しであった。
 狂人か否かの二分法は、レオに狂気を自覚させることで異なる意味合いを持ち始める。レオの自覚を気づかせないためには、むしろあの二分法に受け手が捕らわれる必要がある。予期が明確になった方が誤誘導にかかりやすいのだ。