仮文芸

現代邦画とSFの感想

はるき悦巳の映画術

 『じゃりン子チエ』の2巻にチエがテツと映画館に足を運ぶ話数がある(「文部省選定映画の味方の巻」)。映画のタイトルは文部省選定『僕はまけない』。作中では映画の一場面が劇中劇として挿入される。
 幼少のわたしは『チエ』の中でも殊にこの話をヘヴィロテしたものだ。なぜかは当時は分からなかったのだが、その劇中劇に惹かれていたのだった。先日、実家から横山三国志全巻とともに本作全巻も送ってもらい、四半世紀ぶりにこの話を読み返した。劇中劇の場面に至ると、この話に惹かれた理由がわかった気がした。

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 すごくそれっぽいといえばいいか、映画の構図と照明に忠実なあまり、『じゃりン子チエ』のコテコテした作調から解離している。そのギャップをよろこんだらしい。
 
 はるき悦巳は映画ファンだろう。傍証は至る所にあってスピンオフの『どらン猫小鉄』は一巻丸ごと用心棒パロである。本編でも雷蔵の名が頻出する。60年代の大映がお気に入りか。
 マンガ本編の中に大映スコープぽいコマがないか探してみると、2巻では「ウチのお父はん」のこれ。

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 レイアウトもそうだがカット割りまでもマンガ文法から逸脱している。
 同巻「テッちゃんの同窓会の巻」にも露骨に映画を意識したコマがある。花井家の座敷でテツが級友と大立ち回りをやる。チエと渉が庭先からその様子を観望する。そこで渉がサッシ向こうに展開されるバイオレンスを劇中劇に見立てるのである。

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 おそらく幼少のわたしは、作中に散見される映画っぽさを無意識ながら察していて、そこに惹かれていたのだろう。映像化に際し高畑勲もやりやすかったのではないか。