人格の継続性が完全に絶たれてしまえば、当人は継続性の欠損を認識することができない。したがって、この場合、継続性の途絶から語られる情緒は、当人以外の、継続性を保ちうる外部の視座から語らねばならぬ*1。他方で、あくまで記憶を損なう当事者の視角を活用せねばならぬとしたら、それは、微細な情報(=希望)の制御工学となるだろう。継続性の危機を明確に把握できるのなら、そもそも危機は訪れていない。が、継続性に欠けると、危機は把握でき得ない。ゆえに、危機をかろうじて認知できるほどに、人格の統一性は希薄ながら継続せねばならない。かつ、自意識や煩悶のイヤらしさを隠蔽できるほどに、残存する意識は逓減せねばならぬ。
明確な意識には欠けるのだが身体だけは覚えているような、希薄な認知に基づく風景は、半ば自動的な所作の物語でもあるし、また、知らぬ内に、何らかの規則や制度へ包摂された風景としても処理され得る。
通例、体系へのかかる組み込まれ方は、否定的な文脈で扱われがちだ。が、ここでは、夢に侵犯された現実の混乱を好ましい人情の感覚へ導いた『ユービック』*2のように、肯定的な情緒として活用される自動的な所作というものが語られてくる。公共善の無邪気な反映でありながら、ごくプライベートな詩情に連なること。あるいは、プライベートな感傷が、そのまま公共善に至ってしまうこと*3。そして、自動的な行い自体が、人格の継続性に資すること。
文芸の技術からすれば、感情喚起のコストパフォーマンスの高さを見て取って良いと思う。ひとつの所作が、複数の喚起装置として作動し得る効率性の好例である。