国木田独歩 『富岡先生』 [1902]

牛肉と馬鈴薯―他三編 (1965年) (岩波文庫)

 映写幕に大杉漣を認めるとたいへんな不穏を覚える。何をしでかすか解らない、という不安なのであるが、他方で、その心配は何らかの予期に担保されているようにも思う。少なくとも、何をするか解らぬという感想を生じせしめるのに十分な予期へ。
 『ハゲタカ』でごく良識的な社長を演じる大杉が例に漏れず恐ろしい。理由はふたつあって、まず、われわれには、物語の常識圏にいる人格の幸福を祈る習性があること。次に、社長業と大杉の人格とが相応しない違和感を覚えること。良識的な社長というものがそもそも整合するのか、という物語らしい不安を考えてもよい。違和感を解消するには、大杉の小市民然とした機能性に破綻してもらわねばならぬ。ここで、われわれが殊更に恐怖を見出すのは、大杉が破綻したときの社会的な影響力の大きさであり、かつ、かかる余波の規模が大杉へフィードバックしたときにもたらされるストレスの大きさである。何をしでかすか解らぬ不穏な予期は、社会的破綻に晒された大杉より発するであろうアウトプットかも知れぬ。または、過大な機能的要請に耐えきれない結果、生じるであろう行為かも知れぬ。『ハゲタカ』の大杉では、後者の色彩が強い。


 前に議論したように*1、予期に登記され運行されている風景が見え見えである限り、われわれは、実のところ、彼の幸福を願ってドキドキしているとは限らない。われわれは、彼に対してサディストの願望を抱いてるのかも知れないし、あるいは、彼の不幸によってわれわれが受けるに違いないストレスを予想して、ドキドキしてる可能性もある。しかしながら、別の未来があってもよいはずである。つまり、大杉の幸福がそのまま保全されたとしたら、どうであろうか。予期に従順な風景が逆に巧妙なデコイとなりはしないか。
 そうなると問題は、結局のところ、パラメータ間のトレードオフとして現れてくることだろう。大杉の幸福を保全するとしたら、そもそも彼が不幸に至らねばならぬ端緒であった人格と機能性の不整合が解決できなくなる。しかし、かかる整合性を最初から維持し、人格の機能性に適した場所が彼に与えられると、風景は予期に順応しなくなり、デコイとして働かなくなる。彼は、風景の隠蔽工作を妨害するほどには機能的であってはならぬし、かといって、物語の整序を脅かすほどにお人好しであっても困る。


 予期に担保された風景が、案外な幸福を保全し得た『富岡先生』は、人格にいかほど機能性を配分するか、その最適解の探求でもあった、と解せる。また、ある程度は保持せねばならぬ機能性の存在が、「傍らにいい人がありながら!――ドキドキ」フォーマットを物語に受容せしめているようでもある。

*1:2006/05/30を参照