オースン・スコット・カード 『無伴奏ソナタ』 Unaccompanied Sonata [1979]

無伴奏ソナタ (ハヤカワ文庫 SF (644))

定常した社会のありさまについて、ふたつの見解があって、この仕組みが今日まで生き残ったのは何らかの有効性があったためであり、したがって意味を見出したい、という考えもあれば、それは束縛であり現状の肯定に過ぎない、というのもある。


クリスの幼少教育はいささか強迫的なもので、既存のコードを絶対に聞かせてはならぬといった、蓄積された文芸の影響を極端に恐れる傾向がある。つまり、後者の考え方である。


社会がほぼ定常しきった様子は、たとえば、矯正施設の規模の小ささや監視人の数で説明されている。クリスに対する監視のあり方も緩やかで牧歌的である。


ただ、身体の損壊をともなうような、違反に対する制裁だけは過酷で、妙に社会的ないらだちがある。もはや介入があまり必要もない定常状態であるから、この切迫感には違和感がともなうし、そもそも、過去の束縛を恐れた変化への衝動が、ここで、定常であることの欲望とごっちゃになってるような気もする。


もちろん、これは、説話の体系に矛盾があるとか、そういった話ではない。むしろ寓話のようなものである。


結果的にクリスのスコアは、当人の知らぬところで広く流布したのだが、これが過去の蓄積の重層に埋もれたと解すべきか、それとも楽曲が世界に偏差を与え得たのか、区別の付くようにはなっていない。むしろ、変わらないために変わらねばならぬといったような、至極ノンケな成り行きのように思われる。


しかしながら、作劇の焦点にあるのはもっと個別的なことである。


言ってみれば、それは、何かを整合化するにあたって排出しなければならなかった矛盾の残余のようなもので、たまたま事故のような形で私的な個人にそれが誤集約されてしまったからトラブルになる。物語で行われるのは、その不可解さに対する文芸的な評価である。


説話の手続きからすれば、定常した世の中にあっては、偏差をともなう事故は困難であるから、何重もの安全装置を外してしまえるような息の長い事故の物語が必要である。


こうした事故の持続感が、安全装置を壊さずにはいられない自我の悲劇というよりも、なぜか漫符然とした誘惑と罠の陳列となるのは、穏和な家庭人、オースンの人徳みたいなものか。