The Wayward Cloud (1)


1. 姉と海へ行く


京葉線から望む矮小な海は、高気圧の庇護に気をよくしたのか、化学プラントの配管の向こうから輝度のある反射光を放ち、人びとの網膜を徒に挑発した。漆黒の波が寄せ帰る、カスパールの遣りすぎた宗教画のような曇天の海を望んだ私には当てが外れた格好だ。


「風情のない海だ。まことに冬らしくない。生意気だ」


形の良い姉の口元には控えめな笑みが浮かんだ。


「そうね……生意気な海ね」


姉の頸筋は胸を病んだ人のように蒼白で弱々しく、肉の快楽はどこにも見あたらない。私は、美しきものが無条件に誘う魂の平和を胎児のように享受していた。もはや苦しみは何もない。汚らしい男の上で腰を振る、姿の良いあの肢体を浮かべ自涜に耽ることはもうないのだ。海豹のようなうなり声をあげて自室の床を悶転する日々は終わったのだ。


外房の海が近づくに連れて窓景は石器時代へ遡る風であった。標識柱の朽ち果てた停留所を降りた私と姉は、あまり海辺らしくない埃立つ街道を横切り、黒ずんだ生け垣に沿って細い路地を進んだ。折からの陸風で潮の香りは微塵も感ぜられないが、徐々に粘着をしてきた土壌の形状で海に近いことは解る。寂れた路地はやがて狭い土手のトンネルを通り、段丘のある人気のない浜辺へわれわれを導いた。けれども雲一つない海は、気障な表現主義とは違い、人を涕泣に誘いそうもない。私はすっかり落胆して小さな砂丘に腰を下ろしたが、姉の方は足取りも軽く海へ向かっていった。私は波音へ抗うように声を上げて彼女を呼び止めた。


「どうして、あんな奴と一緒になったんだ?」


姉の長い髪は寒い風に翻り砂の粒子と戯れている。その輪郭はか細くて傷ましい。


「あの人、こんなこと言ったの――君は僕の天使だ。僕がキモいなら言って呉れ。指一本触れないから」


傾いた電柱が細く強い影を白い砂地に落としていた。ひとり浜辺に佇む姉は月面の海に放置された小さく気高い彫像だ。


「ひろふみ君(id:atoz)、孤独で寂しいひとひらの雲のよう。私はひろふみ君の空になりたかったの」


姉は肩を震わせながらうずくまった。(つづく)