若尾文子と童貞たち 『妻は告白する』 [1961]


小沢栄太郎がおもしろすぎて、これでは逆に困るのである。栄養不良で人事不省の若尾を「衰弱してるね、貧血だね」と介護するまでは良いのだが、それがその場で「結婚しよう」と飛躍してしまう。そして一緒になって若尾を扱いかねると、キャバ嬢のヒザ上で暴れ「今さらあいつをかわいがれるか!」とツンデレする。マッチメーカー的にはこれは実に困る。栄太郎が面白すぎて若尾に目が行かなくなるのだ。



+++



保造は、若尾を虐待するだけで享楽を得た時代が50年代を以て終わったことを痛切に感じていた。若尾を虐待するほど彼女を見失い、かえって自らが虐待され拒絶されてしまう。



保造は、何よりも若尾の視点に寄り添うため、栄太郎の身持放埒な造形に恃むところが大きかったはずだ。栄太郎は人の理解を受け付けないことで、われわれを若尾の視野へと流し込む水路となるはずだった。ところが実際は栄太郎が暴れ狂うほどに、われわれは若尾がどうでもよくなってしまう。これは当たり前で、栄太郎は若尾性を前にして壊乱した保造そのものなのだ。つまり、理解できる造形であり続け、若尾に受け手の視点を誘導するどころか、自らに吸引してしまう。



失敗を悟った保造の決断は迅速で、栄太郎は無慈悲にも断崖から落とされる。保造が送り込んだ次なる刺客は川口浩で、あのおそるべきサメ脳を若尾にぶつける荒業に出たのである。




以降、物語の顔容は怪獣映画と変わらなくなる。若尾の愛は川口のサメ脳に届くはずがない。若尾性に狂わない人間は人ではないから、川口は理解不能となり、われわれの視点は若尾と重なる。ところがそうなると、今度は若尾が狂い始めて億ションを購入し、川口を経済的に困惑させてしまう。われわれの視野が川口に戻されてしまうのだ。



若尾が視野を拒絶するなら、それだけ川口のサメ脳を一層研磨し共感不能にして、視点を若尾に揺り戻さねばならない。後はこの繰り返しである。不毛な奇人競争はエスカレーションし、何の均衡も見いだせなくなった保造は泣く泣く若尾に制御棒を挿入し、物語を葬り去ったのだった。



若尾が他の男と挙式を決行するに至るのはそれから2年後のことである



+++



いったい何がいけなかったのか。保造は邪念を捨てきれなかったと言わざるを得ない。たしかに栄太郎や川口の狼猥にして野卑な造形に若尾への視点誘導の含みはあっただろう。しかしそれにも増して、保造の中には、ニクニクしい若尾をいぢめ尽くしたい童貞のこじれた欲望がいまだ煮えたぎっていた。視点誘導など欲望の隠れ蓑に過ぎなかったのだ。



しかし若尾が結婚した後、保造は邪念を抱く余裕すら失う。保造のこじれ果てた嗜虐心は若尾ではなく、ついに自己自らを襲い始める。こうして、われわれはあの感動巨編『卍』へと至るのである。