仮文芸

現代邦画とSFの感想

春を売る声 『言の葉の庭』

『劒岳 点の記』の宮崎あおいの芝居には強烈な印象が残っている。夫の浅野忠信に対する宮崎の品の作り様が場違いも甚だしく、演出意図に疑問を感じざるを得なかった。おそらくは真性の童貞である木村大作が宮崎の魔性に取り込まれてしまったのだ。


『言の葉』のはなざーの第一声に抱いた印象もこれに近い。タカオ君が落とした消しゴムを拾って「どうぞ」と彼に手渡すのだが、この「どうぞ」にわたしはギョッとしてしまった。写実的な作品にはそぐわない、いかにも媚を売るようなアニメ声のように聞こえた。


なぜはなざーは、萌え声で行きずりのタカオ君に媚を売る必要があるのか。それは、はなざーのアニメ声を聞きたい新海誠の性欲の顕れにすぎないのか。あるいは、この女は頭がおかしいのか。それとも、自分が美人であることを自覚する美人の自意識がなせるわざなのか。

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はなざーが明確にタカオ君の好意を察知する芝居には、語り手の性格の悪さがよく出ていると思う。中盤を過ぎたあたりの、彼女の靴を作るとタカオ君が表面する場面がそれだ。タカオ君の好意を悟ったはなざーはまず驚く。これはいい。次の表情が、いかにも新海誠らしいというか、わたしのいら立ちを誘ってしまう。はなざーは余裕に近似する微笑を浮かべるのである。邪推すれば「わたしの色香にやられ始めたわね」的な。




タカオ君の好意の表明を受ける、このはなざーの芝居は、ラストで増幅された形で反復される。タカオ君の告白を受けて、「ユキノサンじゃなくて、センセイでしょ」と返す問題の場面だ。はなざーは前回と同様にやはり驚きの表情をする。これは自然だ。しかしこの次の反応が、何度も言及しているように、こちらの想像をはるかに超えている。はなざーは「ふん」と高慢な嘆息の芝居を入れると、微苦笑の顔を浮かべ上記の台詞を吐くのである。わたしは劇場で叫びそうになった。なんだこのアマは。


ただ、驚くべきなのは、はなざーの芝居だけではない。この不可解な態度を受けて、当然ながら、タカオ君の激高が始まる。その糾弾の内容を通して、わたしたちは初めて新海誠の自意識に直面してしまう*1。タカオ君は語る。あんたは最初から頭がおかしい人だったと。初出したはなざーの芝居に感ぜられたおかしさは、演出の不手際ではなく、むしろ意図なのだ。


感極まったはなざーがタカオ君の首っ玉に飛びつく芝居は素晴らしい。あの矯激なるアニメ声はもうどこにも響かない。赤裸々な泣声から感ぜられるのは、ついにこの高慢な女を墜としたという陋劣なる達成感である。わたしたちは場違いな嬌声の演出意図を思知らされるのだ。あの声は堕ちた芝居との落差を作ることで、わたしたちの昂奮を誘うべく仕込まれていたのだ。