おたく的想像力の自叙伝 『シン・ゴジラ』


第1形態の出現から最初の上陸に至る場面の、会議室映画あるいは管制室映画としての精密さは、文明批評を可能にするほど卓越している。これらの場面では想定外という言葉が頻用されるが、自然災害のアナロジーとして事態が把握されている限りでは想定内にとどまるものであって、だからこそ画面の情報量は膨大になる。自然災害に比し得るのなら既存の対応手順を参照することができる。現実に勝る情報量はない。


上陸した第1形態の全容は衝撃というほかはない。緻密な本編とそれを揶揄するかのように着ぐるみ然とした間抜けな造形の対比は、かかるマンガ怪獣相手に脂汗をかく大人たちの挙動を風刺する。大杉漣のあんまりな性格造形は、橋本行革以降の強い官邸や総理像からすると違和感を覚えるのだが、戯画化されることで主題は明確になっている。


組織過程を描画する情報量は事態を風刺に止めない。カオスを組織化するというまた別の文明批評が提示される。手段ではなく目的と化してしまった会議が人々の正気をつなぎとめる密かな効能を発揮する一方で、その正気が事態の解決にはものの役にも立たず、正気が保たれたまま事態が進展し悪化してとりあえず沈静化してしまう不思議が展開される。


会議室映画の極限たる『フェイル・セイフ』がそうであるように、会議室映画の管制室性はリアルタイム進行によって担われる。本作の第1幕もリアルタイム進行だ。つまり、進行がリアルタイムではなくなったとき、物語は臨場性を失うことになる。本作ではゴジラが活動を停止して2週間の猶予が与えられる件がそれになる。物語はそもそもが八百長であり、リアルタイム進行はそれを隠ぺいする手段のひとつであった。それがいったん進行を止めてしまうと、反動として受け手は現実に引き戻されかねない。物語が八百長であることを意識させかねない。


『フェイル・セイフ』はリアルタイム進行を全うしながら、並走してキャラクターの人生の課題を発現させた。本作が参照したであろう会議室映画『日本のいちばん長い日』では、人生の課題は個人にではなく文化系と体育会系の相剋として、集団を以て表象された。『シン・ゴジラ』はこの方法論をさらに拡張している。リアルタイム進行が終息して今や八百長を隠しきれなくなった物語は、キャラクターの人生の課題を設定して、その解決を模索させることで八百長を隠ぺいする手法に転じる。物語の課題が生じるのは個人でもなく集団でもない。日本という文明そのものである。


この文明はかつて総力戦に敗北してしまった。自らの有効性を実証できなかった。日本という文明の課題とは次の戦争では負けないことである。『シン・ゴジラ』は日本という文明に試練を与え、その有効性をシミュレートし実証しようとする。しかし八百長を隠そうとして行われたことは、逆にその最たるものをやってしまったように見える。超えられない試練は八百長であるがゆえに与えられないのである。


第1幕の想定外は自然災害のアナロジーである限り想定内であり続けた。ところが、劇中で核兵器の使用が想定されると、日本という文明は本当に想定したこともない未知の領域へ足を踏み入れる。それにともない、組織の描画は第1幕のような緻密さを失い、描画のリソースを少人数のチームに集約せざるを得なくなる。物語が参照し準拠すべき情報が想定外ゆえにどこにもないからだ。しかし正確には、このような事態を実際に想定した文明がある。ライン川を防衛するために戦術核の使用を本気で考えていた人々がいる。冷戦下のNATOの作戦計画である。西独市民からすれば多摩川の防衛戦はママゴトに見えるだろう。自分たちが属するドイツという文明に比して、この文明はいかに恵まれた環境にあるかと。


シン・ゴジラ』は、現場のオーバーワークで事態が回ることに日本という文明の特殊性と強みを見出そうとする。しかし、それはかかる文明が直面する環境の甘さの裏返しでしかないと思う。現場がどうかすれば回ってしまう程度の負荷しかやって来ないのである。


ヤシオリ作戦は冒頭の文明批評の再現である。しかも冒頭の会議描画が意図した批評であるのに対して、ヤシオリ作戦は意図せざる批評ゆえに効果は甚大である。あの横転したトカゲは、多摩川からバンカーバスターに至るインフレを引き起こした豪胆な生物と同一のものとはもはや思われない。事態が対応する文明に扱えるよう伸縮している。アヘ顔のトカゲにストローを突っ込み、チューチュー吸わせるまことにみみっちい絵が展開されるが、作戦を統制する本編の役者の演技はあくまでまじめで悲壮そのものである。冒頭のコミカルな着ぐるみ状のものに恐慌を来した大人たちの姿が繰り返されている。


意図せざる文明批評は本編と特撮の分断によってもたらされたものだ。本来これらをつなぐべき特殊建機小隊という現場とそこで挙動する人々に画面の割り当てがない。会議室映画の欠陥が出ているのである。会議室は現場ではなく、現場の描画を言葉で表現せざるを得ない。血液凝固剤の開発からメーカー製造に至る過程はすべて説明台詞で処理され、建機小隊が遠景化された結果、尽力したという実感が醸成できず、オチが弱くなってしまう。


唯一、日本という文明を視覚上で表現できたのはJR爆弾だろう。こんな素晴らしく感動的な絵はそうないと思うが、この文明を共有しない受け手にとっては、poor CGIでしかない*1。そもそもこの文明下にある受け手に限定しても、かかる文明肯定に普遍性があるとは思えない。


シン・ゴジラ』は、『SHIROBAKO』がそうであるように勝ち組の映画である。勝ち組でなければ語り手という身分に到達しえず、勝ち組だから肯定するのは当たり前である。他方で、勝ち組ならざるほとんどの人間にとっては、現場への高負荷で回っている文明はとても肯定できるものにならないだろう。これはむしろ間違っているものであり、潰すべきものとされるはずだ。


日本沈没』は日本という文明を醸成した柔和な環境に自覚的だった。『シン・ゴジラ』はそれをもはや客観視できなくなっている。これはなぜか。本作はポリティカルスリラーのフォーマットに準拠しながらも政治を描かない。本作のアーキタイプたる『ゴジラ'84』は、蔵相の小沢栄太郎に総理小林桂樹の首を狙わせることで政治に言及した*2。あの技術屋ユートピア映画『妖星ゴラス』ですら政治がある。序盤で法相の小沢栄太郎が倒閣を狙うかたちで、この世界にも政治があることが描画された。これらの作品の語り手たちは政治への言及を客観性の担保と考えているのだ。『シン・ゴジラ』の政治へのナイーヴさと無邪気な文明肯定は同じ土壌にあるものだろう。それはおたくの想像力の限界であり敗北である。


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としまえんのスクリーン6は悪意ある構造をしている。入場した観客は必ずスクリーンの前を通らねばならず、着座した客の視点に彼らはことごとく晒されてしまい、客層が一目瞭然となる。


上映前、次々と入室する人々を前にして、わたしは唖然としていた。わたしのような汚らしいイカ臭いオッサンばかりなのだ。


20年前、新宿東映パラスの熱狂は今でも覚えている。『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』の上映を前にして、館内は初々しい童貞たちの熱気で一杯だった。わたしはここに未来があると信じていた。


未来はなかったのだ。あの童貞たちはそのまま凍結して、イカ臭いオッサンとなって、一様に生気のない顔容をたたえながら、としまえんのスクリーン6に転送されてきたのだった。


わたしは泣きそうになった。


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シン・ゴジラ』と『BRAVE HEARTS 海猿』は姉妹作の関係にあるといってよい。直接の影響関係はないだろうが、両作とも震災を受けて語られた日本という文明の肯定論である。現時点での観測に基づけば、『シン・ゴジラ』の興行収入海猿を上回ることはないだろう。客層も違う。しかしどちらも日本語話者の圏外に届くことはないドメスティックな物語である。どちらが好きかと問われれば、わたしはおたくだから『シン・ゴジラ』の方が楽しめた。しかし海猿にもこれはこれで感心するところが多々あった。


同じ主題をフォローしながら、海猿には『シン・ゴジラ』が無駄であるとそぎ落としたものがたくさんある。そこには憎むべき恋愛劇があり家庭劇がある。他方で海猿は会議室の映画ではない。あくまで現場の映画である。総じてみればこの両者は補完関係にある。


現場を抽象した為に、『シン・ゴジラ』では主に矢口の言葉を借りて主題が設定される。これは日本という文明の話であり、かつそれを肯定する話であると宣言される。物語の課題設定では、海猿の方がスマートだろう。まずヒロインに災難が起こり、『セブン』のブラピ夫妻のごとく、この文明はそこで子育てするのに値するものなのか、彼女に疑問が生じるかたちで課題が迂遠に設定される。その後、社会的な災厄が発生し、それに対応する日本という文明の機能をヒロインが目の当たりにして、彼女はその文明を肯定したくなる。


シン・ゴジラ』が文明を試し肯定する話だと高らかに宣言するのに対して、海猿のそれは、最後のヒロインの文明肯定によって、ようやく受け手にも明確に把握される類のものだ。これは文明を肯定する話だったのだと最後に判然となるのである。物語の課題を遡及的に把握させることによって、映画に不可欠な何かを俯瞰したという実感を海猿は生み出している。『シン・ゴジラ』にはかかる俯瞰の感覚が欠けてしまう。矢口に政治家の責任がどうのこうのと演説させるばかりで、事件を俯瞰しようとする気がない。良くも悪くも歪なシナリオなのだ。


シンゴジは重すぎて再度見るのはしんどいという意見を幾例か目にした。これも俯瞰性のなさと関連があると思う。

*1:IMDbのこのユーザーの感想を参照。IMDbに見る本作の海外評は概して低評価である。

*2:小林桂樹内閣のいちばん長い日を参照。