コードウェイナー・スミス 『シェイヨルという名の星』

 山本嘉次郎の『雷撃隊出撃』に文明オナニーの場面が出てくる。笙の調べに乗って、米国人の個人主義に比べて我が大和民族は云々と劇中の人物が文明批評をやり出す。これはつらい。所属する文明を称えてオナニーしたいのは拒み難い人情である。しかし、自分で自分を称えてしまうとオナニーという自覚を強いられて萎えるのである。
 『シン・ゴジラ』の文明オナニーもこの意味で性急である。矢口が「日本人はまだまだやれる」と自分で自分を鼓舞してつらい。標準的な作劇に則れば、たとえば、大和民族のブラック気質とされるものが異邦人である石原さとみに凄惨な感化を与えといったように、あくまで間接的に文明の自慰はなされるべきだったろう。あるいは、自慰が自慰でありながら、またべつの機能を果たすような付加価値があるのなら萎縮を防止できるはずだ。
 『テルマエ・ロマエ』には古代ローマに放り込まれた笹野高史らがオンドル小屋を建設する場面がある。阿部寛は労働する彼らに組織的な属性を見出し、平たい顔族とは不思議なものだと歎じる。これは文明オナニーでありながらも、それを笹野高史に見出せてしまった点で、庶民賛歌にもなっているのだ。
 われわれはタイムトラベルを文明オナニーの道具として利用することもできる。過去の未開と対比することで現代の啓蒙化された社会を肯定するのである。『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ! 戦国大合戦』は封建社会の人間に自由恋愛の現代社会を羨望させる。しかしこのオナニーにも付加価値がある。自由恋愛の未来社会を知ってしまったからこそ、そうではない社会に暮らす自分たちの叶わぬ恋が痛切なものになってしまう。


シェイヨルという名の星 (ハヤカワ文庫SF―人類補完機構シリーズ)
 人類補完機構の人間の再発見も基本は過去の未開と比較して現代文明を肯定することにある。ただ、かつてあった啓蒙化された社会をどう回復するかが課題となっていて、過去と未来の関係が逆転している。同時に、コードウェイナー・スミスの文明オナニーには、自慰を超えた付加価値をどう組み込むかという作劇の問題意識がやはり見受けられる。
 「クラウン・タウンの死婦人」「帰らぬク・メルのバラッド」「シェイヨルという名の星」の三連作は次第に社会が啓蒙化され人権が普及する過程を追っている。
 このうち「死婦人」と「シェイヨル」は、宿命を知った人間の機能的なたたずまいを文明自慰の付加価値として組み込んでいる。
 「死婦人」は人間の再発見の発端の事件を扱っている。人権状況が改善されるのは遠い未来であり、宿命を知ることが自己犠牲の感傷と連結している。
 「シェイヨル」ではすでに人権概念が復興していて、その普及を待つ辺境の危機的な人権状況を扱っている。宿命を知ることの機能性が、人権救済の技術的側面に着目することで発揮されている。
 年代史的にはこれらの中間に値する「ク・メルのバラッド」には『戦国大合戦』と微妙に主題が重なる部分がある。架空戦記としての恋が扱われており、それはあり得たのだという回顧的な知覚によって、制度的に掣肘され実現されなかった恋愛から感傷が抽出されるのである。
 『戦国』では未来の自由恋愛の社会が参照されることでこの感傷が抽出された。「ク・メル」はこの架空戦記愛に個体によって時間の流れ方が違う感傷SFの基本装置が組み込まれる。二人の恋愛は非啓蒙の制度設計によって叶わなかった。しかしそこには今一つの制約がある。非啓蒙の制度設計が、階級の違いで寿命差があるという設定をも可能にしていて、個体によって時間の流れ方が違うがゆえに、恋愛のすれ違いが可能になる。女がすでにいなくなった遠い未来に人権状況が改善され、同時に男は彼女との間に愛がありえた確証を人生の最期に得るのである。