語りの資源配分

倉田梨乃が園芸部の旧庭で小寺と対話する場面である。梨乃はボルダリングに精進する小寺を羨望している。彼女にはやりたいことが見つからない。それがストレスになっている。

小寺の頑張りが不思議な梨乃は「疲れない?」と尋ねる。カットは小寺のショットになり、パズルみたいで頭を使う云々と台詞が入る。


語りの資源は小寺の視点に傾斜したのだが、手前のナメる梨乃に集中力が少々散らされる。梨乃の意識が微小に混在してくるような感じがする。梨乃をナメるのは理由がある。『小寺さん』はほぼ全編、小寺を他人が観察する話であり、彼女の視点にはなるべく言及したくない。このお約束を破らないために、梨乃が画面の端を占める。

画面は切り返され梨乃のショットとなり、核心を突く質問がされる。

「褒められることはある?」


小寺は話が訴えたい価値観を開陳し始める。しかし場面は梨乃のショットのままである。


話を受ける梨乃の心情を見せたいために、彼女の視点は維持されている。だが、このレイアウトでは梨乃に受け手の集中力が向かい、彼女に感化を与える小寺の話の内容が等閑視される。さして重要でないと思わされるから、なぜ感化をうけるのか不明瞭になってしまう。

これではまずいので話の途中で小寺のショットに切り返される。


混乱は増長する。まず、これで今度は梨乃が等閑視されるが、それでいいのかという問題が出る。さらに面倒なのは、前カットで梨乃に向けられた語りの資源の惰性で、手前をナメる梨乃が目立たたないからこそ、どんな顔をしているのか気になり、けっきょく小寺に目がいかなくなる。理屈では梨乃が等閑視される画面がそうはならない。文法のねじれが混乱を引き起こしてしまう。

テクストは物事をシーケンシャルに陳述する。映像は空間によってパラレルに記述できる。語りの資源配分を等しく割り振りたいのなら、ふたりとも等しく画面に入れてしまえばいいはずだ。


それでもなお、上手にいる梨乃に目が行ってしまう。空間を扱える映像でも人間の認知の限界は越えられない。