仮文芸

現代邦画・SF・経済史

『新幹線大爆破』(2025)

運転台に座るのんはストレッサーにさらされるモルモットのようだ。後半にはクールダウンするとはいえ、次々と降りかかる災厄に硬直する彼女の顔には、小動物に虐使を加えるようなただならぬセクシャリティがある。キャストのリアルライフを悪用した趣味の悪い配役だ。終盤になれば、のんが恋しいあまりはやぶさ60号=俺になっているので、人事不省の細田佳央太に見せた彼女の一驚には、このふたり出来てるのかと、それこそ新幹線大爆破なつらみに襲われたのだったが、これはどうも樋口オーヴァーアクト演出の所産らしく、人を負傷させた自分の運転に彼女は気を病んだだけらしい。ばかたれが。75年版ですら混乱をきたすばかりのモブ描写はあんまりと言われていた。25年版では乗客のマンガ度は悪化し、別に爆破していいんじゃないか、むしろ爆破しろと思わせるほどのありさまだ。


運転台を降りてアップルパイ☆な無帽ののんはキャピキャピしてかわいい。運転台の彼女は着帽して声色を抑えキャピキャピではなかった。が、このキャピキャピが草彅と並ぶとパースが狂う。キャピキャピにそぐわず彼女は大柄で草彅と背丈があまり変わらない。このちぐはぐには25年版のすべてが集約されている。


とんだ女難映画である。豊嶋花ははやぶさ60号にとどまり大人たちを災厄の巻き添えにする。残留してしかるべき理由が明かされても、女難の印象は鎮まるどころか、ますます激昂させられる。単なる逆噴射森達也家族の内紛に巻き込まれただけじゃないか。25年版は75年版と世界観を共有しながらどこかズレをきたしている。


75年版の織田あきらは沖縄からやってきた工員である。疫病神に取りつかれた彼は当人と周辺に次々と不運をもたらす。青年の不運を社会にあまねく負担させるのが75年版の構想であり、沖縄出身の設定が75年版を社会小説にしている。


この構想を継承する25年版は指令所に「運」の字を掲げ、身代金はクラファンで募り不運の分担を視覚化するが、肝心の”沖縄”に相当する怨念の中身がなく、森を爆殺すれば済む話にとどまる。この軽さを象徴するのが共犯の正体である。捜査陣がプレハブ小屋に突入するとピエール瀧が鎮座していてお前かと爆笑。配役の思考放棄である。


25年版は『はたらく細胞』(2024)と『ラストマイル』(2024)に連なるインフラ賛歌であり、震災前の人々ならばその社会的感傷に驚くのではないか。ラストマイルでは外資の女と満島ひかりがヤマトのサダヲや配送員の火野正平をはじめとする汚らしいオッサンたちをいじめ抜く。25年版では六平直政に始まる無数のオッサンたちが美少女爆弾魔の奇矯に汗だくになってつき合う。これはセクシャリティではなくラストマイルのサダヲのような催涙ガスである。


はたらく細胞たちのがんばりも徒労であった。無駄に耐える以外にわたくしを超える方法を彼らは見出せないのであった。25年版にもこのような社会神話を創造するノリはある。


75年版には宇津井にも千葉にも、その他おおぜいのオッサンたちにも沖縄というワードによって不運を分担する義理が生じていた。25年版のオッサンたちは豊嶋のポエムに振りまわされるだけである。それは徒労だからこそ事件は希釈されインフラ賛歌へ一般化する。有益ならば誰もが奮い立つだろう。有益だろうとなかろうと、状況に左右せずに一定のパフォーマンスを発揮できるのならば、それはもはや人倫であろう。


不幸の分担を視覚化したクラファンは、社会には実体があると少女を訓導する。クラファンは実体物としてのインフラとは対極にあり、しかも不運を分担する設定が消失した以上、インフラ賛歌の趣旨とはいかにも相性が悪い。社会不信者の回心ならば『BRAVE HEARTS 海猿』(2012)のほうが結末はきれいだ。