グレッグ・イーガン 『ひとりっ子』  Singleton [2002]

ひとりっ子 (ハヤカワ文庫SF)

われわれがエロゲーの分岐に戸惑うのは、パラレルにお話を把握することができないからだ*1。たとえば、自閉気味の天才少女をたらし込んだ人生と、パン屋の娘をたらし込んだ人生が、何のいい訳もなく陳列されるのだが、リニアにしか物事を捉えられないわれわれは、このような説話の仕組みを理解できない。何らかの因果関係を見出そうと足掻いたあげく、不安を覚えるのが関の山である。


ただし、ここでいう分岐の不安は抽象的な苛立ちに過ぎず、理解できないとしても実生活に支障が出る訳でもない。逆にいえば、分岐が日常の障碍となるような仕組みがあれば、われわれは分岐の不安を単なる言葉遊びとして笑うことができなくなるだろう。


順列都市』と『ひとりっ子』の違いは、事前にはっきりと知覚できるような分岐点の有無にあると思う。前者は、分岐について明確な予測が可能で、しかも、選択を誤れば致命的であるような仕組みがある。


『ひとりっ子』は分岐を事後的な回想として扱い、もしあの時ああせなんだら、いまの幸福なわたくしはあり得なかった、といった形で現れる。過去の決断に冷や冷やする心理は解るものの、今日はとりあえず幸福なのだから、『順列都市』ほどの切迫感はない。


この辺は前に触れたような独我論のコントを彷彿とさせる――視界にない階段がいまあるのかどうか悩み始めた息子が靴ひもを結べなくなるのである。では、どうすれば階段が確証できるのか。つまり、分岐のない人生をどうやって確保できるのか。


生体と儀体によって担われ分割された『順列』の分岐は、あくまで外見上の問題ではあるが、『ひとりっ子』にも何となく尾を引くように思う。メカであるならば分岐は生じない、という設定が後者で出てくるのだ。


以降、物語からは、唐突に、21世紀の風――これは何というエロゲーであるか――が吹き荒れて、自分はややあきれるのである。メカ娘の萌え造形がヴァイタル・パートであるなら、主人公夫妻の動機は刹那的な踏み台に過ぎず、その合理化がおざなりになるのも解るような気がする。


ということで、最後にグレッグの萌え作劇を簡単に挙げて勉強しておこう。


メカ娘には市民権がないので、学校に通わせるのもたいへん。人権を認めるようにロビー活動を、とグレッグらしい社会派の香り。


学校がメカ反対派のデモに囲まれてしまった。しかし、俺様の娘は強い子。


「その人たちがなにしても、あたしは困らないもん。バックアップとってあるから」


メカが人権の欠落によって被保護性と結託している。


続くデモ隊突破のシーケンスは、公共善のサンプルとして使えるかも知れぬ。意外にも群衆に善意が確保されていたこと――これはもちろん冒頭の暴行場面とリンク。あと、学内の理解者の明示。


思春期になった娘は、ぐれて家出――「あたしは父さんにとって、物でしかないの?」とかなんとか。

*1:2006/01/15を参照