吾妻ひでお『失踪日記』 [2005]

萌え娘の、多分に善意を含んだ造形がキモイわれわれを「キモイ☆」と評しないとなると不自然なイヤらしさ現れ、かえって彼女の品位を貶めるおそれがある。萌え娘の知性と常識が試されてしまうのだ。したがって、キモイといわなくても済むような風景がほしい。



まずは炭水化物の禁断症状でゴミ場のクッキーを漁る場面を考えてみたい。




そこに遭遇した娘は、セキュリティにたいしてほのかな懸念を抱いたのか、あるいは吾妻の窮境を指向するのか、一見区別のつかない面貌をしている。明らかに後者と解ってしまえばイヤらしいメルヘンになるから、安全面というごく実用的な考慮の余剰を使って修辞に幅を持たせる戦略が採用されている。






しかしながら「微笑むナース」に至ると要求される表現の物価水準はより高まるだろう。職業人の臨床的な慣れが、萌え美少女の気性と対立しかねない。中央のナースが吾妻の奇矯を笑うのは、機能的な担保のある彼女にとっては自然でイヤらしさはないが、その酷薄さが萌え加減を損なってしまう(それがイイ! という人もあろうが)。



われわれはそこで、右下のナースの面貌を考えたい。彼女の口元も臨床的な余裕の促すままに微笑している。しかし目元には異質な品位も現れていて、結果として不思議な離断感を与えている。臨床的な関心の冷淡さに品位のある詩情を付託する作業は、われわれの生理的な直感を超えた感情の向こうに、あるいは、何らかのアクションが起こったこと自体に対する素朴な好意と敬虔の内に秘匿されるのだ。




そして、本当に生理的な理解を超えてしまうと、娘の顔はただ漆黒に閉ざされてしまうのである。