私は、一度きりという不可逆のよろこびに、微笑した (4)

虚ろに閉塞した星のない空だった。幼女は、物言わぬ暗い海の前景をゆるやかな足取りで歩いていた。重く湿った風が微かな潮の香りを運んでいた。



消え入るような着信音の調べに、幼女は足をとどめた。砂地の柔らかい路に腰を下ろすと、遠い彼方から潮騒の響きが聞こえた。



幼女は受信箱を開いた。届いたメールにはなつかしい不幸な男の哀れっぽい叫びが簡潔に記されていた。



『なんてことだ。目が覚めたら能登麻美子になってるよ! まずいよ、このままじゃ川澄綾子にお持ち帰りされちゃうよ!』



幼女は愚弄のまなざしと慈しみの微笑みを湛えて返信をした。



『――いつも見てるよ☆』







記憶の鞘が交叉した始原の海に広がり浮遊した“彼女”は、情報の臨界に至ると、再び特定の物理系の固有名に縮退した。先回の臨界現象では、北陸の寒村に降り立ち、“能登麻美子”と呼称される固有のステータスを構成した。今頃、“能登麻美子“の記憶には別の演算担体が変換され加算されて、新たな行為を発展させているはずだ。





――埃の粒子が、朝の悩ましい斜光の中で光り、幾重にも旋回していた。畳の上には投げ散らされた同人誌が山を築いている。今回、目を覚ましたのは、六畳敷きの温かな部屋だった。



早速わたしは寝台を離れ洗面所に入り、わたしが新たに縮退したステータスを観察することにした。その面貌は青年の顔をしていた。



未来の記憶は、今や血の形状的な起伏に還元され、二度と失われることはない。彼はこれから練馬区役所の裏手へ赴き、ふたつの意味で最愛の人を失うことになるだろう。



わたしは、震え出した青年の体を励ましながら、玄関へ足を踏み出した。今度こそ、あの人にいわねばならないのだ。





練馬区役所の鏡面のような窓に映る空は、明度の落ちた石盤の色だった。吹き下ろす風で波紋のように舞うその人の髪は、高い空から落ちる日射しで鮮明な輪郭を描いた。



その人はわたしの姿を認めると、わたしのために微笑んだ。(了)