映画

『続・男はつらいよ』

懸想の対象には恋人の影がある。しかし欲望がそれを曲解することで前兆は潜在化する。かくして恋は唐突に失われる。佐藤オリエに懸想した山崎努の動揺に言及があるのは序盤の一場面だけで、あとは後半までこのふたりのラインは潜在化する。その悲恋は寅を唐…

『タクシー運転手 約束は海を越えて』

悲酸を盛り上げるための準備動作としてソン・ガンホのテンションを不自然にする本作の実利的態度は、タクシーのカーチェイスで極限に達してお笑いに接近する。公安のコワいオッサンの叙述も純ジャンルムービーそのものの通俗さで、作品に対してとるべき態度…

『復讐者に憐れみを』

職人の意気地がアマチュアを糾弾する。ペ・ドゥナを滅ぼしシン・ハギュンを捕獲するのはソン・ガンホの電気工学であり、同じくハギュンに一矢を報いるのは臓器業者のメスさばきである。しかし、彼らの意気地は反アマチュアにとどまらない。それは若者憎悪で…

『ヒメアノ〜ル』

男の甲斐性の裏付けなしに成立してしまった恋愛はつらい。それは実際に起こり得るのかもしれないが、やがて経済問題から佐津川愛美と濱田岳の間に拗れが生じるのは目に見えている。ふたりの幸福の危機から生じるはずのスリラーは、どうせ壊れる幸福であるか…

『君の膵臓をたべたい』

浜辺美波の演ずる痴性はエイリアンめいている。挙動は商売女の媚態そのものだ。加えて、不自然なるその身体に乗っかっているのが年齢不詳の顔貌である。この手の物語の様式に基づけば当然、かかる態度は作り込みの証左であって、偽装の下にあるヒロインの実…

『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』

これから起こることを知りそれを克明に再現しようとする不可解な癖が小松菜奈にはある。事実上の原案である『時尼に関する覚え書』との差異のひとつがそれで、福士蒼汰もこの癖には混乱してしまう。既知のことが実際に現前するよろこび、つまり宿命を知るよ…

『永い言い訳』

作家であるモックンがトラック運転手の竹原ピストルと遭遇することで階級間交流が始まる。階級の媒介物となるのは竹原の息子である。私立を目指し受験勉強している彼は両義的な位置づけにあるのだが、階級を媒介するにも関わらず、逆にモチーフの対立点とな…

『神様の思し召し』

明瞭な選択肢が劇中に現れた時点で負けになってしまう可能性がある。結末が予想を超えない恐れが出てきてしまう。たとえば『地球を守れ』('03)だ。その主人公は宇宙人が襲来すると警鐘を鳴らし続け周囲から狂人扱いされる。結末はふたつしかないだろう。男は…

The Ciano Diaries 1939 - 1943

深尾須磨子の日記によると、彼女がムッソリーニに面会したのは1939.6.2である。ムッソリーニの信奉者である深尾は感激もひとしおなのだが、会談の最後にはムッソリーニの様子に違和感を覚える。「ム首相の私をぢっと視つめられる眼には寂しげな影が窺はれた…

『四月は君の嘘』

あくまで山崎賢人が事件を目撃する体裁は保たれるべきで、広瀬すずは観察対象であらねばならない。すずは隠し事をしていて、その発覚がオチとなるからだ。しかし男の視点であるならば、当然、彼の抱えている課題に物語は傾注する訳で、すずは課題解決の踏み…

高慢を超えて 『踊らん哉』

失恋をした男の顔を如実にトレスすることで『秒速』のタカキが嫌な共感をもたらすように、男の好意を察知した女の顔を忠実にトレスすることで『言の葉の庭』のユキノがこれもまた嫌な共感を喚起する*1。御苑のベンチでタカオの好意を悟った彼女は、自らの優…

匿名の観察者 『一週間フレンズ。』

設定の受容について語り手と受け手の間にすれ違いがある。おそらく語り手は解離性健忘を主題として軽視している。しかし、受け手としてはそれこそが叙述されるべきものと認識している。このすれ違いで設定の受容に困難が来す。とにかく不自然なのだ。こうい…

『男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋』

冒頭で信州を旅する寅次郎からとらやに絵葉書が届く。「いいなあ君の兄さんは」とさくらに博が所感を述べる。手前の兄貴でもあるわけだから、この言い方には博らしくない距離感がある。中盤でも、いしだあゆみが上京して寅に付文を渡す場面で、博はメタな視…

『だれかの木琴』

ホラー映画にしては珍しく、ストーカーの常盤貴子の内面が開示されている。ところが彼女の内語は、修羅場と化する状況とは全く関連のない話題に終始している。内面開示が恐怖を煽る装置になっていて、そこにわれわれは美人の天然というべき恐怖を見出す。か…

格調とは何か 『イースター・パレード』

Steppin' Out With My Baby の間奏でやるアステアのハッスルがもどかしい。サル顔の貧相な男が人外のヘンタイ機動を行うグロテスクがアステアの魅力であるのだが、当該の場面ではアステアの挙動がスロー描画されることで、そのヘンタイ機動が封じられてしま…

『殺人の告白』

映画『砂の器』が無意識であれ目指したのは、原作に充満する松本清張の怨念を封印することであった。それは、コロンボのようなセレブリティへの怨念であり、かつ相貌のよい若者への怨念である。 『殺人の告白』では、怨念の提起と封印が同一作品の中で行われ…

『ボーダーライン』

ゴルゴ13に少年が出会うひとつの類型がある。少年が偶然にゴルゴの仕事を目撃してしまう。第482話の「ストレンジャー」は前に言及した。好きな話だ。ゴルゴの仕事ぶりに感化された文弱少年が生きる勇気を取り戻すのである。対して、本作のエミリー・ブラント…

『HiGH&LOW THE MOVIE』

一見には琥珀さんがわからないのである。シリーズからは独立した、自己完結した物語として本作を観察してしまうと、三十半ばになっても族を引退しないヒゲのオッサンが精神的支柱を失ってオロオロしている何とも貫録のない話になってしまう。琥珀さんの慕わ…

『クリーピー 偽りの隣人』

精神病質者の視点がたびたび挿入される。理解不能な人物の主観が入るわけだから、男の病質性はおのずと低減される。地下鉄の場面で明示されるように、男の挙動が精神病質であるとはっきりと定義したくない意図がある。彼がそれであるのかどうか、その可否の…

嬌飾された偶然 『ライク・サムワン・イン・ラブ』

この老人に訪れるオスの試練には段階があり、その階梯の間にはタメとしての踊り場がある。中盤での加瀬亮との接触がそれで、メスをまるで扱えない童貞然とした老人が加瀬へ人生の教訓を垂れ始め、オスとしての甲斐性をようやく発揮する。 ただし不穏なのであ…

六平直政 怨念の箱舟 『復讐 運命の訪問者』『マルタイの女』

『運命の訪問者』は異能者の連帯とその芸が継承される物語である。哀川翔と六平直政は『CURE』の役所広司と萩原聖人の相似である*1。 『運命の訪問者』は六平直政の生き様と死に様の物語だ。六平にはモンテーニュが言及するようなローマの偉人の徳がある。恐…

景物の誘い 『人生スイッチ』『蜘蛛の瞳』

自らの過ちが原因とはいえ、反社会的人格の搭乗する車を煽ってしまった男は『激突!』の状況に追い込まれてしまてしまう。 ここで状況を観測しているのは、もちろん追われる男の方である。彼を襲撃する反社会的人格の視点には言及がない。内面が明かにされる…

双方向サイコ 『教授のおかしな妄想殺人』

イレギュラーであるのは、モノローグのかたちでホアキンとエマの内語がそれぞれ二人とも開示されている点で、さらに内語の内容も奇妙なのである。エマはホアキンを話題としている。ところがホアキンの方は殺人の話題で一杯で、エマがあまり出てこない。通常…

大杉漣、魂の座 『CURE』

大杉漣がいちばんえらい。久しぶりに『CURE』を再見してそう確信した。 大杉漣登場の会議室の場面は衝撃である。ヘアスタイルとメガネだけで話は喜劇に堕ちかかる。その通俗の塊のようない出立ちで萩原聖人に立ち向かってゆくのだから、してやられるのは確実…

宿命を知る 『ちはやふる』

広瀬すずは美人である。最初のつまずきはそこである。劇中でも美人であるとはっきり言及されていて、彼女の課題設定に負の影響を及ぼしている。美人の時点で課題が消失しかねない。このことは語り手も自覚していて、美人であることを無効にするための描画が…

激録オッサン密着24時 『現金に手を出すな』

事情あって『現金に手を出すな』を再見した。初見時は学生であったわたしは寝落ちしてしまって、どんな話か今まで解らないでいたのだった。今回見返してみて、あまりのおもしろさに驚いた。 本作が叙述するのは24時間+αのオッサンの行動であり、省略されてい…

恋と技術の無差別付託 『パガニーニ 愛と狂気のヴァイオリニスト』

バーナード・ローズの格調のない演出に戸惑ってしまった。ジャレッド・ハリスの懇々たる説得が始まると劇伴が盛り上がってきてキャラクターの感情を説明する。ロンドンに行けば霧、紅茶と紋きり感甚だしき記号がヒューモアを醸す。乳繰り合いが始まるとやっ…

全性愛の陽のもとに 『望郷』

『将軍たちの夜』を連想したのだった。『将軍たちの夜』でピーター・オトゥールの猟奇殺人を追うのはオマー・シャリフである。『望郷』でジャン・ギャバンを追っているスリマン(リュカ・グリドゥ)は現地人の扮装をしている。どちらも捜査官が中東系かそれ…

認知障害ノスタルジー 『KANO 1931海の向こうの甲子園』

怪作である。何もないのである。廃部や廃校の危機ではない。夢破れたオッサンが才能ある若者を見出すのでもない。凡人で終わりたくない若者の焦燥でもない。貧困からの脱出ではない。荒廃した地域に希望を与えるでもない。虐げられた民族の恨み節でもない。…

幻想のナルシシズム 『捨てがたき人々』

南洋幻想である。弁当屋の店員から商店街のモブに至るまで、容姿に水商売的不自然さがある。ただ理念優先の話らしく、南洋の割には美術が乾いていて生活感がない。いくら時間が経っても南朋の住まいが汚部屋にならず、歳月の経過がわからない。 中盤の田口ト…