読書

ラヴィ・ティドハー 『完璧な夏の日』

劇中で人が人に恋をする。この際、劇中人物とともに受け手も相手に恋をせねば、展開されるイベントを自分のものとして受け取れなくなる。男を惹きつけた女の属性は受け手をも惹きつけねばらならない。このことは究極的には次なる問いを呼ぶ。何を以てしたら…

ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア 『あまたの星、宝冠のごとく』

自分の将来を予見することはできる。しかしそれは憑依のようなもので、我に返ると予見の内容が当人の記憶から消えてしまう(「もどれ、過去へもどれ」)。作中でも言及される通り、『スキャナー・ダークリー』のような肉体の記憶に依存する類型であって、忘…

Chekhov, A. (1892). The Wife

村の飢饉に際した地主の男はその窮状を救うべく妻と知人に相談を持ちかけるが相手にされず、独りこじれる。妻と男の仲は冷え切っている。男には未練があるのだが、女は夫を憎悪している。夜、夫が自室で悶々としていると、階下から喧騒が聞えてくる。夫を放…

Greene, J Moral Tribes: Emotion, Reason and the Gap Between Us and Them

いくつかのトロッコ問題のうちでも、殊に被験者の多くにとって容認できないケースがある。1名を線路上に突き落として暴走するトロッコにぶつければ、トロッコは停止して5名の保線作業員が助かるとする。この場合、突き落として5名を救う決断をするものは3割…

チャールズ・ストロス 『アッチェレランド』

複数の自分のコピーに人生を送らせ淘汰を試みる事業が作中に出てくる。人生の正しい選択を見出す手立てなのだが、そこにおいて各コピーの人権問題が提議されることはない。ゆえに、自分をコピーして分岐させる決断はカジュアルに行われる。劇中人物はバック…

三島由紀夫 『宴のあと』

恋愛であれ何であれ、自意識の混迷は行動を躊躇させる。自意識の暴走は抑止されねばならぬが、自意識を欠いてなお人は人であり続けられるのか。出てくるのは無意識の制御という逆説の課題であり*1、形式への依存が回答のひとつとなるだろう。形式が人を運ぶ…

The Ciano Diaries 1939 - 1943

深尾須磨子の日記によると、彼女がムッソリーニに面会したのは1939.6.2である。ムッソリーニの信奉者である深尾は感激もひとしおなのだが、会談の最後にはムッソリーニの様子に違和感を覚える。「ム首相の私をぢっと視つめられる眼には寂しげな影が窺はれた…

ブルース・スターリング 『タクラマカン』

メガゾーンから脱するのではなく、外部者がメガゾーンに包摂されてしまうオチであるならば、ディザスター物の範疇に入ることだろう。ディックの『ユービック』はこの系統にしてはイレギュラーな話で、メガゾーンへの包摂に幾分かの好ましさを付加し、かかる…

クリストファー・プリースト 『夢幻諸島から』

キャラクターの心理過程を叙景によって代替的に表現するだけでは、アイロニーとしての完成度は心許ない。アイロニーにまつわる語り手の自意識の泥沼を克服してそれはようやくアイロニーとなる。アイロニーとは知らぬふりをせねばならず、その叙景は人物の心…

ロバート・J・ソウヤー 『フレームシフト』

ソウヤーの作品世界には自意識のない陽性の気質が事欠かない。『スタープレックス』のイルカやイブ族はその最たるものだが、人類しか出てこない『フレームシフト』でも登場人物は基本的に自意識を持たない。ヒロインがテレパスという設定は、その俗謡調に驚…

ジーン・ウルフ 『アメリカの七夜』

タイトルは失念してしまったが、サブ・サハランかどこかの長老が19世紀の欧州辺りを訪ねて文明の利器にケチをつけて回るあの探訪記は、小学生のわたしをいたく憤激させた。今読んでもおそらく憤激すると思う。長老の偏狭さに憤ったのである。 内容は長老が自…

ダン・シモンズ 『ハイぺリオンの没落』

会議室小説であるから、マイナ・グラッドストーンの機能面が突出して、悪化する事態に対応するマイナの根性が試されるおなじみの展開を期待してしまう。実際、半ばそのように構成もされている。しかし、根性を試す筋に割には、彼女の内面が開示され過ぎてい…

マイクル・フリン 『異星人の郷』

中世人と異星人のコンタクト物である。地球にやって来た異星人の方がとうぜん技術的に進んでいるから、これは現代人である読者が異星人に自分を仮託して文明のオナニーをやる話かと思いたくなる。ところが趣が少し違うのだ。主人公である中世欧州人の神父は…

コードウェイナー・スミス 『シェイヨルという名の星』

山本嘉次郎の『雷撃隊出撃』に文明オナニーの場面が出てくる。笙の調べに乗って、米国人の個人主義に比べて我が大和民族は云々と劇中の人物が文明批評をやり出す。これはつらい。所属する文明を称えてオナニーしたいのは拒み難い人情である。しかし、自分で…

チャイナ・ミエヴィル 『都市と都市』

事件とキャラクターの並行する叙述が舞台設定の不自然さを補てんできている。まずミステリーの情報開示が舞台の不自然な凸凹を利用して情報を流出させることで、不自然さを補てんする。キャラクター叙述の方はバディ物に準拠していて、これが三つの階梯を踏…

ビーター・ワッツ 『ブラインドサイト』

主人公がコミッサールに設定されていて、ブン屋のような職能を負っている。当事者であってはならないとされ、状況を批評するばかりなので、イベントの担い手にならない。これは話として難易度の高い作りである。 主人公男はサイコパスである。この手の精神病…

ティム・パワーズ『アヌビスの門』

新たな状況にキャラクターを放り込むことで物語を始めるとする。状況は劇中の人物にとっても受け手にとっても未知であるから、状況説明の営みが不自然とはならず、物語への導入が円滑になるだろう。 この手の作劇には今一つの利点もある。新たな状況に対処せ…

エミール・ゾラ 『居酒屋』

受け手が好意を寄せるキャラクターがある。われわれは彼女の幸福と成功を願う。その一方で、このヒロインに寄生する男がいる。ヒロインに好意があるゆえに男を憎悪するわれわれは、彼の破滅を願う。しかし、男がヒロインに寄生している以上、ヒロインを破滅…

三島由紀夫『雨の中の噴水』 石原慎太郎『完全なる遊戯』

恋愛の局面にあっては男は選択の主体になり難い。選ぶのは女だからだ。では男が選択の主体となるにはどうすればよいか。三島の『雨の中の噴水』は恋愛の終局に着目する。選べなくとも棄てる決断はできるはずだ。この発想がさらに倒錯すると、恋愛が目的では…

失われた人格を求めて 『鎮魂』と『血別』

太田守正『血別』と盛力健児『鎮魂』が共有する問題意識は、渡辺芳則という人物の解明にある。盛力本は渡辺を批判し、太田本は盛力本を批判することで渡辺を擁護する。この両者は渡辺という人物の造形構築について補完関係にある。ところが、両本を参照した…

もしゆかな声であれば 『her/世界でひとつの彼女』

離婚をした男は復縁を望んでいる。あるいは離婚に踏み切れないでいる。いかなる状況であれば男にかかる未練が残るのだろうか。互いに憎悪があれば未練は残らない。あくまで男が捨てられた状況が必要である。 近松秋江が捨てられたのは甲斐性がないからだった…

老人性涙腺肥大 林達夫・久野収『思想のドラマトゥルギー』

先日、「君は感動しないだろう?」と人に言われた。これは、わたしの冷淡さを当てこすったものだったが、実のところ、わたしは毎日泣き暮らしている。 これに関連して、最近、よく思い出すのが、『元気が出るテレビ』の松方弘樹である。彼は、他愛もない人情…

善意を表現する構造 グレッグ・イーガン『白熱光』

本作は、明らかに、フォワードの『竜の卵』と政治的課題を共有している。また、語り手には、そのように想定してもらいたい動機がある。実のところ、叙述トリックで課題が解決される点で、本作は『星を継ぐもの』の影響下にあるのだが、トリックである以上、…

当事者性と感情の信憑性は代替する 原民喜『夏の花・心願の国』 関千枝子『広島第二県女二年西組』

人の死に様を観察する美文が苦手である。大岡昇平を読むと、戦争をオカズにして自慰にふけるように見えてしまう。当事者に美文をしたためる余裕があるとは思えず、話が作り物に見える。 『夏の花・心願の国』は前半が妻の看病記になっていて、原民喜は詩人だ…

『断作戦』

文芸寄りの『断作戦』に『パンツァータクティク』のような戦場の解像度を求めるのは筋違いであるし、『ペリリュー・沖縄戦記』のような生活観察も期待できない。戦況が既知外なため帰還兵の記憶が断片化している。また戦況図もついてないから、何が進行して…

『ジェイルバード』

応報の教育的感化が先にあって、救われるという情報が倒述的に公開されても問題はない。というより、感化へ興味を向ける点で、むしろ公開せねばならないのかもしれない。 救済の仕込みと発火の時間差が小さくて、まさかアレが仕掛け花火だった的な、因果の案…

イベント再現 + 忘れ形見メソッド

アヴィーロワの回想記に晩年のチェーホフとモスクワ駅で邂逅する件があって、発車間際の列車の中で、チェーホフは彼女の娘を膝に抱き上げ、親しげにその顔をのぞき込んだりする。 そこから遡ること十年ほど前、二人が初めて対面したとき、彼女を人妻だと知ら…

夢見る設計主義を箱庭療法の手段として割り切りたい気分が前提としてあったと思う>チェーホフの果樹園

ヤルタに移住したチェーホフは、荒野から切り開かれた自邸の果樹園が、数百年後に地上を花園に変えると夢想する。しかし、当人はそれを見ることがない。それどころか肺病で死にかかっている。だとしたら、なぜ彼はバラの手入れや花壇の草むしりに勤しむのか…

野尻抱介 『太陽の簒奪者』[2000]

情報の大放流は読者へひとつの勝負を挑みます。情報ダムの貯水を巻末までストックできるか、われわれの興味を引きつけるのです。しかし先回ふれた『火車』は3分の1あたりで枯渇し、本作も100頁を超えて危急の課題がクリアされた時点で、節水が始まったと判断…

宮部みゆき 『火車』 [1992]

急速な情報流出は構成上の負債を抱えます。情報ダムの枯渇によって、早くも序盤越えで失速する事態を考えねばなりません(たとえばポール・ハギス脚本の『告発のとき』)。本作では文庫版の140頁あたりから始まるサラ金の規範的描画が枯渇の指標となるでしょ…